
どうもです。
日中は暖かくなってきましたが、日が暮れるとまだまだ冷え込む日が続きますね。
このくらいの気候が一番何着て出掛ければ良いか分からず困りますが、もう寒いのは嫌なのでこのまま暖かくなって下さい。
さて、2月3月は仕事が若干のんびりモードになるので、その間を利用して色々と出掛けてました。
2月の後半になかもと君の撮影にドライバーという形で同行し、4日間ほど宮城県の南三陸に行ってきました。
向こうで1日ボランティアもし、撮影に同行して現地の方や長期ボランティアの方々ともお話をさせていただいたのですが、その経験が大き過ぎたのか、自分の中でなかなか上手くまとまってくれません。
帰ってきてから色々な人に東北はどうだったかと聞かれるのですが、何をどう話したものか戸惑ってしまいます。
構え過ぎなのでしょうが、もしまとまれば折をみてまた書かせてもらいます。
3月はアートフェアの搬入半分観光半分で1週間ほどニューヨークに行ってました。
まぁ見るもの全てが桁違いで、こちらもこちらで貴重な経験でした。
特に印象に残ったのはやはりMoMAとメトロポリタンでしょうか。西洋美術史の教科書に出てくるような作品ばかりで逆に現実感がなくなります。
中でもMoMAにポロックの代表作とニューマンの代表作の間にジャコメッティの代表作が置いてある部屋があって、もうなんていうか贅沢すぎて泣けてくるという感じでした。
あとDia:Beaconも明らかにおかしい規模のスペースに明らかにおかしいスケールの作品が入ってるのが良かったです。アートフェアはまぁ、うーん、、、という感じ。
それでいよいよ4月になって仕事も通常モードになるのですが、2点展覧会の告知です。
神奈川県の相模原で東北で撮影してきた写真を展示します。こちらは年末年始に展示の手伝いをした宮崎君の企画。
『大船渡・南フランスの子どもたち・若きアーティストそして相模原』
2012年3月11日(日)~5月13日(日)
(私の写真が展示されるのは4月7日からです)
9:00~17:00
相模原市立環境情報センター
もう一つは今年で幕を降ろすことになる私たちのアトリエ、studio90での展示。
京都アートフェアと同時期に開催される京都オープンスタジオにも関連してます。
『白の解態』
2012年4月28日(土)~6月3日(日)
13:00~19:00
※土日のみオープン
studio90
studioの展覧会はラスト2回なので、悔いのないよう色々と試してみようと思っています。
あと京都アートフェアにもeN artsから何点か出すのでそちらもよろしくお願いします。
それでは今回はこの辺で。
下のはstudio90の展覧会用の画像です。

どうもです。
ちょっと今年の寒波は半端ないですね。
この前バイクに付いてる温度計が-2℃を記録したときには「あぁ、この寒さの中を突っ切って帰らんとアカンのね・・・」という言い逃れ出来ない絶望感と同時に「このバイク、マイナス表記にもちゃんと対応してるのね」という新鮮な驚きに包まれました。
さて、見に行かれた方も多いと思いますが、1月の頭に愛知でやっていたジャクソン・ポロックの展覧会に行ってきました。
今までドリッピング/ポーリングでの作品のイメージの強かったポロックですが、今回の展示はその前後の作品(主にドリッピングに辿り着くまでの変遷)に重点が置かれていて、ポロックという作家が持っていた幅を認識し直せた良い展覧会だったと思います。
特に、ピークと言われている1950年の作品以降のものの中には完全に成功しているとは言い難い作品もありましたが、一度完成させた技法を捨ててまで新しい方向に作品をシフトしようとするポロックの葛藤が強烈に画面に現れていて、見ているこちらも胸を締め付けられるような感覚を味わいました。
言っても仕方のないことですが、あの若さで亡くならなければどのような作品に辿り着いていたのだろうかと想像させてくれる可能性が画面に詰まっていたように思います。
せっかくポロックを見るんだし、ということでポロックに関する本をいくつか読んでいたのですが、中でも昨年11月に刊行された「ART TRACE PRESS」に載っていた松浦寿夫さんと林道郎さんの対談が良かった。語り口が軽快と言うか、ポロック自身の身の上話にはあまり入り込み過ぎず、作品や資料を基に様々な角度から批評しているのが面白かったです。
藤枝晃雄さんの「新約ジャクソン・ポロック」には当時のポロックの生活状態まで結構詳しく書かれていたので、その違いが異なった視点を与えてくれました。
美術に限らず文学や音楽にも言えることですが、歴史に位置づけされる作品の多くはもう作家や当時の関係者がいませんし、作品が作られた社会状況も変化しているので、鑑賞者は推測や想像に頼るしかない部分がほとんどです。
どれほど考えてみても作家の意図を完全に理解することは出来ませんし、その必要もありません。
時代によって語られ方が変わってもそれを受け入れられる作品はすごいなぁと。
芸術の懐の深さを改めて感じさせられました。
あけましておめでとうございます。
今回で3度目になるのですが、何度書いても新年1回目のブログというのは緊張します。
しかも担当更新日が毎月1日なので、必然ブログリレー新年1回目も私ということで、なんというか見えないプレッシャーを勝手に感じているわけですね。どうりで腰が痛いわけです。
まぁ毎月1日更新というわりに毎度毎度更新が遅くてご迷惑をかけているんですが・・・
先月なんてサボっちゃいましたから・・・申し訳ない。
せめて年始めくらいはきっちり間に合わせて、やれば出来る子だと自分に言い聞かせなくてはなりません。
去年の禊はこのくらいにして。
さて、昨年は一言で総括なんて出来ないくらい様々なことが起きた年でした。
エジプト、リビア等のアラブ諸国の革命にしろ、震災、原発の問題にしろ、TPPにしろ、何か世界が大きく転換していくような、そんな感じを与えるほど衝撃的な出来事が続いたように思います。
しかし、実際に身の回りでは相も変わらない日々が流れており、だからこそマスメディアが報じる世界がとても衝撃的であり、日常とのギャップに戸惑いを覚えた方も多かったのではないでしょうか。名状し難い疲労感と、何をするべきかという問いが一個人に強く突きつけられた1年だったように思います。
私自身、折に触れて考えてきましたが、今もって明確な思考、具体的な行動には結びついていません。
現行の社会システムに限界が来ているのではないか、などど月並みで大層な事をいくら並べ立ててたところで、結局言うは易しです。ならばどうするかということを、個人が触れ得る次元にまで落とし込まないと意味がありません。
ならばいっそ、一つの方法として一旦目的や理想は脇に置いておいて、とりあえず手を動かしてみるのも良いかもしれません。時には手を動かすことで見えてくる目的もあるはずです。そうして考えてみると、私にとって今は絵を描くことがそれにあたるように思います。
傍から見ればあまり的を射ているように見えませんし、自分も何処にいくのか皆目見当もつきませんが、数ヶ月前のブログで書いた「つくること」の本質を信じている自分が確かにいます。出来あがった作品が目的や理想とかけ離れたものであったとしても、そこに費やされた時間や思考はきっと現在に寄り添ったものであるはずです。多分、きっと。
まぁ、そんなことを言いつつ何を描いてるのかといえば、じっと和蝋燭を眺めているだけなんですが・・・うーん
そうですね、とりあえず今捏ね繰り回している作品たちを何とか形にしようというのを今年の抱負にしつつ頑張っていきましょうか。
それはそうと、蝋燭を眺める傍ら先月2つの展覧会のサポートをしてました。
どちらも京都精華大学キャンパス内で1月6日からのスタートです。
一つはアトリエで一緒に制作している森川穣君の参加するグループ展
『風景の逆照射』
2012年1月6日~1月21日
10:30~18:30
※8(日)9(月)13(金)14(土)15(日)は休廊
京都精華大学ギャラリーフロールにて
この展覧会は、美術、思想、宗教、建築、詩歌、科学など、多様な専門家が参加し、<風景>と<人間>の相関関係を捉え直すことで、自然や環境に対する近代的な固定概念を、相対化しようとする試みです。
詳しくはコチラ http://www.venus.dti.ne.jp/~keitem/index.html
もう一つも大学の同期で、主に写真をしている宮崎敬三君の展覧会
『IMAGINATION』
2012年1月6日(金)−1月16日(月)
12:00−20:00(日・祝は17:00迄)
※13(金)14(土)15(日)は休廊
京都精華大学7号館 7-23galleryにて
こちらの展覧会は宮崎君が東北を訪れて撮ってきた写真と、向こうで知り合った日仏交流プロジェクトの方から南フランスの子供たちが被災者に向けて描いた絵を預かり、それらを交えて展示しています。
報道や宣伝としての写真ではなく、彼個人が被災地で感じたことをどのようにすれば伝えられるのか、葛藤しながら作り上げていました。
私の作品は出ていませんが、搬入や制作の手伝いを通して色々と学ぶことがあって、どのような形であれ関われたことを素直に嬉しく思える展覧会です。
それぞれに現実の捉え方があり、またそれぞれにリアクションの仕方があります。
どちらの展覧会も今回1回きりではなく、継続していくことを前提としているようなので、この先も続いてもらいたいと思います。
お時間がある方は是非
では、新年早々長々と書きましたがこのへんで。
今年もよろしくお願いします。
ここのところ、制作中はアトリエの蛍光灯を極力点けずに作業しています。
日中アトリエに行ける時は外光を頼りに絵を描き、読書の時は机の電気スタンドで文字を読み、夜間どうしても暗い時は隣の制作スペースの蛍光灯を点けて、伝わってくる光で制作したりしています。
電力を出来るだけ使わないよう心がけないとなぁ、なんてECO精神に目覚めたわけではなく、最近蛍光灯の光が体に痛い、という20代とは到底思えない理由からなんですが、大丈夫なんでしょうか、僕は。
まぁそんな環境下で絵を描いているのですが、絵の具を置く作業が一段落して、蛍光灯を付けた時に何気なく画面を見ると、思っていたのとは違う色が乗っていることがよくあります。描いてる時と光線が違うので当たり前なのですが、あぁ修正せんとなぁと考えたところで『ちょっと待て』となります。
確かに蛍光灯下では違った色に見えるけども、蛍光灯を消した状態で描いていた時はこの色として認識していたんではないかと。
では、この作品が今自分が見ていた色と同じように認識されようと望むのならば、展示空間の照明を極力現場の光源に近づけないといけないわけです。それがどこまで可能なのか、そして今まで見て来た作品は、果たしてどこまで作家が見ていた色に忠実であったのか。
作品を見る時にそこまで気に病む必要なんて全然ないのですが、蛍光灯下が当たり前の中ではついその光が当然のように感じてしまいます。
あと、うちのアトリエの蛍光灯はジージー五月蝿いです。
そんなstudio90で現在展覧会をしています。
studio90 第10回展
北條裕人『TIME LINE -34.949395,135.719014』
2011年11月12日(土)〜12月23日(日)
11:00〜20:00
土・日・祝のみオープン
お時間がありましたら是非お越し下さい。
最近、ふとしたきっかけで諏訪哲史さんの文章を読みました。
「どうすれば小説が書けるのですか?」というタイトルのエッセイで、諏訪さんが講演や授業で同じような質問をよく訊かれるらしく、それについて諏訪さんなりに答えている文章でした。
「人が小説を書くという所業に走るのは「読むこと」の「臨界」を超えた時だ。だから最低限、病的なまでに読書が好きでなければならない。本を読まない人は臨界を超えたりしないので、書く必然性がない。必然性なく書き始めてしまう者の大半は、自己愛的な「作家プレイ」を楽しんでいるだけではないか。」かなり大雑把に要約するとこの様な内容だったと思います。
文章の中で諏訪さんは必要な読書量として、40代までに5千冊と書いています。かなりの読書量です。諏訪さん自身も「こういうことを提言すると、多くの場合、ものすごい不平不満を言われる」と書いていますが、確かに月12冊のペースというのは病的に読書が好きでなければ不可能な数字のように思えてきます。文章の後半には「エスプリ」の才能についても触れていましたが、今回は少し置いておきます。
この文章をそのまま所謂芸術家に当てはめるには少々無理がありますが、なかなか考えさせられるものがあります。
もちろん文筆家と芸術家では表現方法に大きな違いがありますし、文筆家にとっての「(本を)読むこと」がそのまま芸術家にとって「(作品などを)見ること」に置き換わるわけでもありません。
そもそも「読むこと」には一定の技術が必要です。普段文字を読んでいる私たちには当たり前のことですが、それは訓練の成果であって、本来文字を読むという行為は人にとっても一種特別な行為に属します。
しかし、それに対して「見ること」とはほぼ全ての人が本能的に行っている行為です。
ならば、ものをつくることを行っている私たちは何の「臨界」を超えた時に作品を生み出しているのでしょうか。
もちろん「見ること」であっても良いと思いますし、人によっては「考えること」になるのかもしれません。「つくること」によって「臨界」を超えるという同義反復が成立する方もいると思います。
「読むこと」と同様に「文字を書くこと」も特別な行為だとするなら、それに比べて「ものをつくること」は幾分本能的な所作であり「臨界」など超えなくても出来てしまうという可能性だってあり得ます。
思考は堂々巡りを繰り返しますが、しかしそれでもやはり考えてしまう。
例え本能の延長であったとしても作品として人の前に提示する以上、何かしらの「臨界」を超えたものであり、必然性を持ったものでなければ見る人に響かないのではないのかと思ってしまいます。
果たして今の自分に出来ているのかは甚だ疑問ではありますが、続けてきた中から微かながらに見えてきたものもあります。
そういう時に時間の重さというかありがたさを感じるのですが、それでもたかだか数年の積み重ねでしかありません。
10年20年先に何かが明確になっているとも思えませんが、それでも常に頭の片隅に留めておきたいものです。
何一つ纏まっていない文章ですが、今回はこの辺で。
ここ数ヶ月、月初めに忙しさが集中している気がします。先週ようやく展覧会の準備が一段落しました。
ということで、先週金曜日から京都祇園にあるeN artsで展覧会が始まりました。
告知が遅くなってしまいましたが、イベント情報のところにも詳細を載せましたのでよろしくお願いします。
まぁオープニングは台風直撃だったわけですが・・・
オープニング時間には日本海に抜けてるかなぁと思ってたら、わざわざ岡山辺りで速度落としましたからね。自転車並の速度って。
あまりの暴風だったんで窓開けたら作品が飛んでいくんじゃないかと心配してました。灰がブワァーと舞ったりしてね。それはそれで綺麗なんですが。
今回の展示は新シリーズを中心に、今までのtransシリーズも大きく変化させました。
自分で言うのもなんですが、少々不思議な雰囲気を醸し出す空間になったのではないかと思います。敢えて例えるなら70年代後半のニューヨークのギャラリーのような、そんな雰囲気です。まぁ私はまだ生まれていない時代なんですが・・・
アトリエに籠って作品とだけ向き合いながら制作している時はそれほど感じなかったのですが、ギャラリーに展示すると微かに70年代の匂いがする、というなんとも面白い体験でした。きっとeN artsの空間にも要因があるのでしょう。
その時代の作品が個人的には好きなので、そういった雰囲気が出たということは良いことなのですが、大事なのはそれをどのように受け入れていくかだと思います。
いくら当時の作品が好きだと言っても、それと全く同じことをしても仕方ないですし、そもそも時代背景が違うので同じことをしても全く同じことにはなり得ません。
では、一体どういうことなのか?今この制作を行うことがどのような意味を持ち得るのか?という問題になってきます。
正直、今回は直感に依ってガシガシ進めてきた部分が大きいので、まだピントを絞って明確に言葉にすることは出来ません。
ただ、作品がまだ明確に言語化出来ていない状態というのも、それはそれで様々な想像力を刺激してくれて作品の可能性を色々と妄想出来るので、一人でニマニマしながら楽しめるのですが、ずっとそういうわけにはいかないので、これから過去の作品や評論に目を通しつつ時間をかけて作品の持つ意義を確かめていきたいと考えています。
今月30日まで、金土日のみのオープンになりますので、お時間のある方は是非お越し下さい。
それでは。

当たり前の事ですが、「今」とは常に矛盾と葛藤を抱えているものです。
「過去」にある理想を求めて選択してきた物事、得たものがあれば当然のように欠けてゆくものもあります。
今私たちが直面している様々な問題は、親の世代、祖父母の世代が選択した「未来」から生み出されたものであり、私たちがこれから選択する「未来」から生み出される矛盾や葛藤は、私たちの子供の世代に引き継がれていきます。
良い悪いという尺度ではなく、そのようにして歴史は続き、矛盾や葛藤があるからこそ今の私たちは考え、選択をしていこうとします。
そして、「考える」ことと「つくる」ことは似ています。
互いに補完し合う関係という方が近いかもしれません。
あれこれ考えてはみるけれど、考えるだけでは何も進まないし煮詰まってきます。
なにか具体的な行動に移すべきなのでしょうが、なかなかその段階にまで自分を持っていけません。
そこでもまたある種の思考が枷になっているようにも思います。正に堂々巡りです。
そんな時、何気ない制作行為によって煮詰まった思考が解けていくような感覚を味わうことがあります。
特に難しいことをしているわけではなく、その時の思考と行為が直接関係しているわけでもありません。
紙を破いたり貼ったり、木を切ったり組み立てたり、それを燃やしたり。・・・まぁ最後のはアレですが。
最近ではそこに描くことも含まれてきました。
一つ一つの行程は特別難しいことをしているのではなく、その気になれば誰にでも出来る事ですが、それを積み重ねることで何かが生み出され、それが時に熱くなった頭を冷やし、塞き止められた思考を流してくれます。
実際に手を動かすことがそうさせるのかもしれません。
そして、多分そこに美術というカテゴリーはあまり意味を持ちません。
単純な行為の積み重ねが何かを生み出し、思考に作用する。そして生み出されたものに対してまた思考を働かせていく。
「つくる」ということの根源的な意味がそこにあるような気がします。
果たして、今私がしている行為は「未来」に対して出来うる最善なものであるのか、そもそも私自身はそれを目的につくることをしているのか、まだまだ確信を持ててはいませんが、私たちの選択が次の世代に引き継がれていく以上、考えなければならないことに違いはありません。
そしてどうにも私は考えているだけではすぐに煮詰まってしまう性分ようです。
「考える」ことと「つくる」ことのバランスは難しく、あまりプリミティブになり過ぎるのも考えものですが、自分に合ったやり方で少しずつ選択していくしかありません。
どれほど遠大なことを考えていても、いつも出来ることは目の前にあることだけです。