
ブログの更新が遅れて申し訳ないです。
ここ2,3日ほどアトリエに缶詰状態になっておりました。
うちのアトリエはインターネットという最新設備が整っておらず、テレビなんかもないため、唯一外部の情報を得られるメディアはラジオという具合なので、展覧会前にアトリエに缶詰なんかになったりすると、ほぼ世間から隔離された状態になってしまいます。
今朝、アトリエの向かいにある保育所から運動会の練習をする園児たちの声が聞こえてきました。
そろそろ秋ですね。
お見苦しい言い訳はこの辺にして、本題です。
先日、前回のブログでも告知させてもらったトークイベントに行ってきました。
そもそも人前で話すことに慣れていない上に、想定外の人数の前で話すという状況になったため、ガチガチに緊張し、正直何を話したのかあんまり覚えていません。
そして、私は緊張すると何故か関東弁になります。話してる本人に自覚がないのが厄介です。
それもエセ関東弁を話すらしく、関東の人が聞いたら「それ、関東弁じゃないザマス。」と言われること間違いなしです。
多分前世は「関東の郊外に住みながら、いつか東京に上京することを夢見る女の子を娘に持つ母親に飼われていた、九官鳥」に違いありません。
そんなこんなで、なんとかトークイベントも終わり、その後反省も兼ねて色々と今の京都について考えてました。
studio90を立ち上げてから2年半が過ぎました。まだ2年半か、という思いもありますが、アトリエの契約年数が5年ということを考えると、折り返し地点ということになります。
2年半前にstudioを始めた時の京都のアートは『凪』の状態だと感じていました。
だからこそ、何か動かないといけないという思いもあって、共同アトリエにギャラリースペースを設けることにしました。
それから3年弱で京都のアートは大きく変化したように思います。
新しいギャラリーも出来、アートフェアも開催され、オープンスタジオをする機会も増えてきました。だんだんと京都に注目が集まってきています。
京都藝術もその一環として、京都を盛り上げました。
ただ、その盛り上がりを見ながらとても良いことだと思う反面、何か大事なものを取りこぼしているような、そんな危険性を感じてしまうのも事実です。
まだ明確な言葉では語れませんが、形だけが先走りして中身が伴っていない、そんな感覚がどこかにあります。
様々な条件が整いだしてまだ3年なので、これからのどのように変化していくのか今の段階では分かりませんが、ARTはやはり作品在りきで動いてもらいたい。良い作品たちが生まれることで周りを巻き込んでいってもらいたいと、そんなことを期待しています。
studio90もオープンスタジオの1つとして、これからどのような展示を行っていくのかを考える良い機会になったと思います。
契約満了後、どうするのかまだ決めていませんが、残り半分も自分達が良いと思った展示をし続けられれば、とそんなことを考えた8月でした。
どうも、蒸し暑い日が続きますね。
毎年思うんですが、蝉が地上に出てくるまで何年も地中で息を潜めてるのに、毎年毎年こんなに沢山の蝉が鳴いているということは、地中にはどれほど蝉の幼虫がいるんでしょうか。なんか、あんまり具体的に考えると恐いですね。
ということで、最近は仕事に制作に展覧会(自分のじゃないです)と立て続けに〆切に追われております。一つの〆切が決まったら、そこを狙いすましたように様々な〆切が被ってくるあの現象はなんとかならんもんでしょうか。ともかく、もう少しで山場を越えそうです。
さて、&ARTも参加している「京都藝術」がいよいよ今日から始まります。
studio90も参加させてもらい、それに合わせて昨日から徳田卓也展「遠くを眺める」を開催中です。
タブローとドローイングを見せているのですが、対象を前にした時に作者が感じた驚きや喜びがとても素直に表現されていて、初個展ながらとても見応えのある展示になってます。
今回、展示のためにギャラリーを白くして電気も付けました。studio90、7回目にして初のホワイトキューブです。今まで真っ暗な空間の中を蝋燭で見せようとしたり、天井から細い光が落ちてるだけだったり、、壁が白くなったと思っても電気を着けないから結局薄暗かったりと、随分見難い展示が続いていましたが、今回はなんと蛍光灯も付けた上に窓も開いてます。しかもクーラーまで付いてるという、電気代のことなんてもう考えたくないよ仕様になっております。
そして、この度studio90が8/9発売のぴあ関西版に載せてもらえることになりました。
続けていると色々あるものだと、少々感慨深い気持ちになります。
開廊時間がいつもと少し違っていて、昼の暑さを避けた15時~22時となっているので、お時間のある方は是非足をお運びください。
徳田卓也「遠くを眺める」
2010年7月31日(土)~9月5日(日)
15:00~22:00 (8月1日(土)は18時まで)
土・日のみオープン
期間中作家在廊予定
studio90
それと、「京都藝術」のオープンスタジオ関連でトークイベントに参加することになりました。
webや冊子では私の名前の表記が間違ってますが、まぁそういうこともあります。
よろしければ是非
トークイベント
「アーティストが制作の現場に求めるものとは?」
8月21日(土)19:00~21:00
会場: 淀studio
パネリスト:
名和晃平(SANDWICH)、田中英行(Antenna)、児玉真人(G Art Studio+ULTRA FACTORY)、北條裕人(淀)、田中真吾(studio90)
司会: 矢津吉隆(淀)
内容: 京都藝術オープンスタジオの開催にあたって、京都で制作するアーティスト達が自主的に運営するスペースの現状とこれからの展望、可能性について話します。
そういえば先程「京都藝術」のオープニングに行ってきました。タイムリーですね。
それにしてもすごい盛り上がりでした。あの勢いで8月の京都が盛り上がってくれたら嬉しいです。
ではでは、今回はこのへんで
7月です。2010年も半分が終わりました。早いものです。
2010年の上半期は展示の予定がないのを良いことに、生活環境の一新を行いまして、仕事を変えたり引っ越ししたりとバタバタしておりました。
下半期に展示の予定が控えているので、それに向けての制作時間確保を目的とした一新だったのですが、何故か一新する前とそれほど変わらない忙しさという、不思議な状態に見舞われております。まぁ楽しんでいるので問題はありませんが。
先程も触れた展示の予定ですが、9月にBIWAKO BIENNALE、11月にINAXで展示させてもらいます。考えてみたら、&ARTで自分の展覧会の宣伝をさせてもらうのは初めてです。久しぶりの展示で少々緊張しますが、近づいたら詳細を載せますのでよろしくお願いします。
さて、本題に入ろうと思って最近印象に残っていることを思い出してみたら、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことしか出てこないという、何とも動きの少ない生活ではありますが、せっかくなので少し書こうと思います。
主人公のラスコーリニコフが、独自の犯罪理論を元に高利貸しの老婆を殺害することを企てるのですが、偶然居合わせた老婆の妹まで手にかけてしまったことで、様々な問答をしながら次第に罪の意識に苛まれていくというのが、かなり大まかな概要です。
物語はラスコーリニコフの問答を中心としながらも、予審判事や主人公の妹の婚約者など、様々な人物の描写も交えながら進んでいきます。
実は4,5年前に1度挑戦したのですが、上巻の途中であえなく挫折、最近移動時間がふえたため再度挑戦したところ、下巻の展開が相当面白く、「ロシア文学は合わない」などと小生意気なことをのたまわっていた過去の自分に張り手をくらわせてやりたい気分に駆られました。
特に、エピローグでの人間再生の描き方は思わず泣きそうになる。
まさかドストエフスキーに泣かされるとは。
かなり有名な作品なので大部分の方は内容を知っていると思いますが、私はタイトルを知っている程度の知識しか持たずに読み始めたので、その内容の多彩さに驚きました。
人物の回想場面では哲学書のようであり、予審判事とのやり取りの場面では推理小説を思わせ、最後の場面では人間ドラマとしてまとめ上げる、とても見事な構成になっています。
数年前に、これもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「現代の社会を予言していた」と注目されたことがありましたが、視点を変えてみると、作品が書かれた1800年代後半以降、社会の様相や人の心理がそれほど大きく変化していないのではないかと考えることもできます。
ヘッセやカミュの作品を作品を読んでいても感じますが、非常に鋭い観察力を持って書かれた作品には、自ずと当時の社会情勢や風潮、人が抱える悩みが滲み出てきます。
例えば、ラスコーリニコフは回想の中で、社会主義思想を批判しています。
そういった作品が「現代の社会を予言していた」と言われるということは、それが人にとって普遍的な問題であるのか、もしくは近代のシステムが潜在的に内包している問題であるのか、まだまだ考える余地がありそうです。
最近、生活環境が変わりました。
その影響でほぼ毎日電車に乗ってます。
要は色んな場所から遠くなったということです。
今まで移動は全てバイクだったので、移動中は主に鼻歌か妄想に耽ってたのですが、電車になると時間の使い方が変わります。
音楽聴いたり、本読んだり、音楽聴きながら本読んでる途中で寝たりとやりたい放題です。
その中でも好きなのが窓の外をぼーっと眺めることです。
実はこの窓の外をぼーっと眺めるのがかなり好きです。
ちなみに1番お気に入りの電車は京阪電車の特急です。
丹波橋から枚方までの区間がたまりません。シートのクオリティもピカイチです。
いつか天気の良い昼下がりに用事も無いのに京阪の特急に乗って、出町柳から淀屋橋まで3往復くらいするのが夢ですが、そう思い始めて7年経った今でも実現出来ずにいます。
何がそんなに好きかと言うと、車窓から眺めた時にたまたま見えた人が、その時見てる景色を想像するのが好きです。
こちらは電車ですので、ものの5秒程で通り過ぎるのですが、例えば堤防を散歩しているおじさん、河川敷で遊んでいる子供、閑静な住宅街を歩いている主婦、買い物帰りのおばあちゃんなど色んな人がいて、その人たちの日常を生活しています。
私が歩いたことのない土地もその人たちのありふれた日常で、それを電車から俯瞰しながら想像していると、とても世界が広く感じられてきます。
世界に60億もの人がいるのもなんとなく納得です。
ちなみに車窓から見える風景があまりに都会過ぎても、逆に自然過ぎてもいけません。
街と自然が4:6又は3:7あたりが良い具合に惹きこんでくれます。
そんな話。
それと、studio90で開催中の展覧会、山岡敏明「GUTIC STUDY」。(~6/13まで)
かなり良い展示に仕上がっていますので、お時間がある方は是非お越し下さい。
それでは
ここのところ京都のART事情が活発ですね。
アートフェア、オープンアトリエ、イベント等、色々な見方があると思いますが、
そこはARTの多様性ということで、私は基本的には良い傾向なんじゃないかと思ってます。
ただ、全てを見て回る時間がないのが残念ですが・・・
そんな流れに便乗させてもらおうということでstudio90でも5月8日から展覧会を行います。
展覧会を行うのは山岡敏明さん。
大阪を拠点に活動されている作家さんで、グチックという作品の制作を続けておられます。
このグチックがとても面白い。
どんな展示になるのか私たちも楽しみにしています。
山岡敏明「GUTIC STUDY」
2010年5月8日(土)~6月13日(日)
13:00~20:00
土・日のみオープン
期間中の土曜日は16時以降、日曜は終日作家在廊予定
詳しくはコチラ→studio90
山岡さんには、展示のために毎週studioに来てもらっているのですが、普段見飽きた・・・じゃない、
見慣れたメンバーの他に、外部の方が一緒に作業されるのはとても新鮮です。
固定のメンバーでやっていると、どうしてもアトリエの雰囲気も固まってきます。
別に悪いことではないのですが、話をしていても道筋が見えるというか、いつも同じ結論に着地してしまう気がします。
山岡さんのナイスなキャラクター性によるところも大きいと思いますが、
外部の方が来てくれることで、時には新鮮な風を通すことも必要です。
ただでさえ風通しの悪いアトリエですし。
この流れが良い展示に結びつけば良いなぁと。
遠方ではありますが、お時間があれば宜しくお願いします。
ここ最近寒い日が続いていた所為もあって体の調子が芳しくありません。
主に腰に痛いです。経験のある方は分かると思いますが、この手の痛みに寒さは大敵です。
朝起きた時の腰の感じでその日の気温がなんとなく分かってしまいます。
「やまいだれ」に「冬」と書いて「疼く」とは昔の人は上手いこと考えたものです。
暦の上ではぼちぼち春なんですが・・・
しかも腰がやられると連鎖的に他の部位にも影響が出るのがやっかいです。
「にくづき」に「要」と書いて(以下略)
さて、先日なかもと君の展示を見てきました。
知り合いの、しかも同世代の作家さんというのはいつも刺激をくれるものです。
似たような立場、視点から社会を見ているという思いがあるからかもしれませんが、
その人が現在何を考え、どのようなテーマを持ちつつ制作しているのかとても興味があります。
反転して、では私はどうか?と、いつもそんなことを考えさせられます。
今回の彼の作品も充分以上に刺激をくれました。
そしてここから昨日のなかもと君の記事とちょっとリンクしてきます。
なかもと君ばかりで申し訳ない・・・
私は常々studioを一緒に借りてる森川君から「展覧会を見なさ過ぎる」と口が酸っぱくなるくらい叱責されていまして、
まぁ森川君の見てる量が少々異常という意見は置いといて、
それでも知り合いの作家の展覧会には出来るだけ足を運ぼうと心掛けています。
実践出来ていないことも多々ありますが・・・
単に作品を鑑賞するにしても、知っている作家さんというだけで鑑賞時の心持ちが変わってきます。
それが面白い作品を作る作家さんだと尚更です。
「作品を制作した人間を知っている、又はある程度その人についての知識がある。」
というのは作品を鑑賞する上で結構重要な要素なのだと思います。
それが作品にとって良いか悪いかというのはまた別問題ですが、
少なくとも「知ってる人」の作品を前にした時には誰でも「理解しよう」とするものです。
また、例えば「ルノワール展」を見に来る人の中でルノワールを全く何も知らないという人は多分少数派です。
例えルノワールを知らなかったとしても大丈夫、説明文や年表が丁寧に説明してくれ、
多くの作品が年代順、シリーズ別に並べられているので、美術館を出る頃にはプチルノワール博士です。
正に「知ってルノ」です。(注:私が考えたわけではありません。)
要は、1点の作品と向き合っていても、実は周りにある多くの補足情報と共に作品を見ている状態です。
一つの作品を「わかろう」とすればそれだけ多くの情報が必要ということなのでしょう。
作品を「わかる」とは一体何をもって「わかった」ことになるのか、これまた難しい問題ですが・・・
美術館など広いスペースを使っての展示ならば、そういう見せ方も可能なのでしょうが、
私たちが普段展示しているようなギャラリー空間ではなかなかそうもいきません。
「作品に興味を持ってもらえる要素」を色々と考えることはある程度必要なことだとは思いますが、それでも限度があります。
なにより、私たちの制作は「既に完結しているもの」ではなく現在進行形で続けているものです。
1年後にどんな作品を作っているのか自分でも掴みきれない部分があります。
なので展示する時は「今現在考えていること、感じていること」を見せるしかなく、
それを積み重ねる中から一体何が掴めるのか(作家にとっても、鑑賞者にとっても)が重要になってきます。
だからこそ作家は作り続けることが大事ですし、出来れば鑑賞者の方にも見続けてもらいたいと願います。
それが現在アートの一つの魅力なのですが、なるほど結構ハードルの高い要求なのかもしれません。
最近はだいぶ増えてきた感はありますが、
この&ARTのように現代アートの作家を紹介する機会が増えればまた少し違ってくるのかな、
と現代アートの末席に座る身としては期待してしまいます。
これだけ書いといて結局最後はヨイショですね。
それでは
1月2月と続いていたstudioでの展示も無事終わり、
まぁ私の展示ではなくメンバーの作品だったのですが、
色々と巻き込まれてバタバタしている内にもう3月です。
え?もう3月?です。
そんなバタバタしてる間、制作の片手間で気になってた本をいくつか読んでました。
その中で一番最近読んだのが村上春樹の「1Q84」でして、迂闊に手を出したのが悔やまれるくらい嵌ってしまいまして、
久々にハードカバーを一気読みしてしまいました。
ただものすごく気になるところで終わっていて、春樹フリークに言わせるとあの終わり方でもアリらしいですが、
私としては4月にbook3がでるから良いようなものの、あのまま終わられた日には気になり過ぎて夜も寝れずに昼寝してしまうところです。
とまぁ、冒頭でもう3月?とか書いときながら4月が待ち遠しいという話は置いといて、
その「1Q84」のことを少々。
「1Q84」はその名の通り1984年の東京を舞台として物語が進行するわけですが、文章中の街の描かれ方と、
私が当時の東京をよく知らない為に上手く想像出来ないことが相まって、現在の東京とあまり大差ない風景を思い浮かべながら読んでしまえます。
高速道路は通っているし、高層ビルも建ってます。東京は当時でも充分都会です。
ただ、あの時代に確実になかったものがあって、要所要所の描写でそれを強く意識させられます。
それは何かというとインターネットと携帯電話です。
例えば、主人公が過去の事件を調べるのに図書館に行って新聞の縮小版を読み返すシーンが出てきます。
今だったらクリック1つで終わらせてしまえる描写です。
頭の中では現在の東京とあまり変わらない風景として話が進んでしまっているだけに、
そんなシーンが出てくる度にそこだけ時間が逆流してはるか昔の話のように感じてしまいました。
街の風景や主人公の日常はリアリティを持って読めるのに、
何かを検索したり人と待ち合わせをするシーンが出てくると途端にリアルに感じれなくなってしまいます。
何故そうなってしまうのか、悶々と考えてみると、
改めてネットや携帯が私たちの感覚に与えた影響は大きかったことに気付かされます。
もはや、それらがない生活をリアルに考えられない。
しかも自分では無自覚の内にそうなってしまっている。
これはなかなかに恐いことであります。
1984年と言えば、私はもう生まれています。
ちょうど1歳くらいで、飛行機モノマネがマイブームとなっており、
必要以上に飛行機のポーズで写真を撮られていた時期にあたります。
お世辞にも飛行機に見えるとは言い難いですが、なかなかの背筋を持っていたのだと伺わせるポージングです。
そして、私がネットと携帯を手にしたのは17歳くらいだったと思うのでちょうど10年程前になります。
少なくても生まれてから10年前までの17年間は、1984年のような生活スタイルだったはずで、今もまだ以前の経験の方が長いはずにも関わらず、そう感じてしまうところにある種の恐さがあります。
まるでビッグ・ブラザーみたいだと、そんなことを考えてしまいました。
なにやら飛躍した上に悲観的な感想になってしまいましたが、本はとても面白かったので是非。