アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

どうもです。
随分遅くなってしまいましたが、現在展覧会をしています。
もう会期が残り4日ですが・・・


「 す  あ。 ラ   火  一  見   極 」
―解体と構築の同時性―


2014/10/03 ~ 2014/10/31
会期中の金・土・日曜日 12:00~18:00
※上記以外の日程はアポイント制となります。


今回のこのタイトル、文字化けとか火の使いすぎで脳が半分溶けたとか周りから心配されまして。
まぁ半分は当たってる気もしますが、一応理由はあります。


サブタイトルになっている「解体と構築の同時性」が今回の制作の中で試みたことでして、「解体されつつ構築していく、あるいは構築されつつ解体していく」ことを作品内で実践できないか、ということが一つのコンセプトになっています。
なので、せっかくだから展覧会タイトルもそのやり方で決めてしまおう。
ということで、展覧会に寄せたステイトメントの文章を刷った紙を一文字ずつバラバラにして、まとめて燃やして残った文字を文章の中に出てくる順番に配列してます。文字と文字の間の間隔は、その間に入る実際のステイトメントの文章(存在したはずの文字量)から導いてます。ただ、このままだとオートマティックに過ぎるので、同じ文字が複数出てくる場合は、どの箇所の文字をカウントするのか、その選択を行う自己を構築する主体の存在として考えています。


そんなことを真夏のアトリエでボーっとした頭でグルグル考えてみたので、良かったら是非足をお運び下さい。


さて、展覧会の告知はこの辺にして、アーティストブログリレーが今月で最後と聞いて、少なからぬショックを受けまして。
自分が日々感じて頭の中で漠然としていることを「ブログに書く」というモチベーションで言葉にしていたので、他者に読んでいただくのはもちろんですが、自分にとっても頭を整理する良い時間だったと思います。
ここ2,3年は満足に時間を作れなかったですが・・・


思考を言葉にする、文章にする、というのは意味を限定してしまう危険ももちろんあって、どれだけ尽くしても足りないもどかしさも付いて回りますが、作品制作が傍らにあるので、作品がその辺りの気持ちを受け止めてくれる気もして、要するに作品制作の傍らで定期的に文章を書くという経験はとてもありがたかったということです。
そこまで言うなら別のところで自分で続きを書けば、と言われれば不精の性がむくむくと顔を出してきて二の足を踏んでしまうんですがね。


とにかく、たくさんお世話になったブログなのでこの5年の自分を振り返ってみよう、そう思って読み返してみると――
・・・なんか毎年同じこと言ってます。この人同じことばっかり言ってます。変わってません。
5年あったら中学生が成人しますよ。所々論点もあやふやだし・・・


それでも読み返してみるとやっぱり一つ一つの記事に思い入れがあり、その時の記憶やパソコンを前にして呻っていた時間も蘇ってきます。
自分の過去作を見た時に、その時期の思考が思い出される感覚に似ていますが、文字になっている分こちらの方が鮮明です。
ここで書いたことに直接意見をもらえて嬉しかったこともありましたし、実は意外なところで読まれていることに気づいて恥ずかしくなりもっとちゃんと書こうと思うも自分の文才の無さに打ちひしがれたことも多々ありました。
たくさんの人と知り合えて、今現在もとてもお世話になっています。そのきっかけの一つがこのブログだったように思います。


ブログが終わっても&ARTは続きます。
僕も相変わらず京都の隅っこのアトリエでなんだかんだ燃やし続けます。
多分来年も再来年も同じようなことを考えながら燃やしてるんだと思います。
お世話になっている方々にも心から感謝しつつ、これからも変わらず頑張っていこうと思います。


それでは、今後ともよろしくお願い致します。


tanakagazou.jpg

どうも、お久しぶりです。
随分と暑さもおさまってきて、気がつけばもう9月なんですね。
今年の夏も例年同様、まったく夏を感じるイベントもなくアトリエで色々と燃やしてたら気がつくと秋です。そういえば、琵琶湖花火大会の花火の音が山の向こうから聞こえていたような気がするので「あぁ、夏だな」と思った記憶があります。幻聴だった可能性もありますが。
ということで、来月10月にあるeN artsでの個展に向けて鋭意制作中ですが、まだタイトルや画像が出来てないので詳細はまた来月。


今回は大阪の国立国際美術館で9/27から始まる『ジャン・フォートリエ展』が楽しみという話。
私は5月に東京での展示を見たんですが、豊田市美術館での巡回を終えて、いよいよ大阪に来ます。あの展示をもう一度近場でゆっくり見れると思うとワクワクが止まりません。これだけワクワクするのは6月に2週間だけ映画館で公開された『初代ゴジラ デジタルリマスター版』を見た時以来です。結構最近です。


ジャン・フォートリエは「アンフォルメル」の先駆的作家として位置づけられていて(フォートリエ自身は必ずしも肯定的ではありませんが)、何度か展覧会や雑誌にも取り上げられてきましたが、フォートリエだけの大きな回顧展は日本初らしく、私もこれだけの作品を時系列順に見たのは初めてです。
で、この「アンフォルメル」というのが色々とややこしくて、戦後フランスで始まった「アン-フォルム(不定形)」を特徴とする抽象絵画の動向なんですが、その影響はフランスだけに留まらずヨーロッパやアメリカ、そして日本など広範囲に渡っています。加えて、アンフォルメルを強力に推し進めようとしたフランス評論家のミシェル・タピエ自身の定義が非常に広義的な解釈だったこともあって、いまいち正確な輪郭を捉えることが困難です。結局どこからどこまでがアンフォルメルなの?という感じ。


ただここまで広範囲に影響を与えた動向は美術史上類がなく、それだけでもアンフォルメルが与えた衝撃の大きさが推し量れます。事実、日本においても1956年に高島屋で開催された『世界・今日の美術展』と、それに続いて来日したタピエと数人のアンフォルメル作家によって大きな衝撃を受けたことで「アンフォルメル旋風」と呼ばれる熱狂が生まれ、前衛を看板としていた美術家たちの多くがアンフォルメル作家へと転身したようです。ちなみにフォートリエも1959年に展覧会のために来日しています。この頃の美術雑誌を見ると、どの雑誌にも必ずと言っていいほどアンフォルメルの文字が並んでいます。


ですが、これほどの盛り上がりを見せたアンフォルメルも1960年半ばを境にピタッと誌面から消え、変わりにポップアートやミニマリズムなどのアメリカを中心とした美術の動向にシフトしていきます。この辺りに戦後同時期の美術の動向を「アンフォルメル」によって一括しようと試みたタピエの限界と、文化の主導権を争ったフランスとアメリカの姿が見えてくるような気がします。
しかし、これを結果的にフランスが主導権争いに敗れたと捉えるのではなく、政治的文脈と照らし合わせながら1960年以降の日本がどのような道筋を辿り、いかにアメリカの影響下にあったかを考えてみると面白い気がします。実際ヨーロッパでは、今でもアンフォルメルを戦後美術の重要な動向として認識しているみたいで、どのような位置付けになっているのかが気になります。


2011年にブリヂストン美術館で行われた『アンフォルメルとは何か?』など、最近ちらほらとアンフォルメルの再評価が行われているので、『ジャン・フォートリエ展』をきっかけにして更に研究が進めば良いなぁ、と。


あと、今回の展覧会では展示されている作品の多くが日本の美術館のコレクションで、代表作といっても過言ではないような作品まで含まれていたことに驚きました。日本の美術館にも名作がいっぱい収蔵されていて、展示一つでここまで充実したものを作れるという可能性が素直に嬉しかった。そんなことを考えさせられた展覧会でした。


今回はこのへんで。

お知らせが遅くなりましたが、eN artsで現在行われているグループ展に参加しています。


『eeny,meeny,miny,moe|red』


2014年4月4日(金)~4月27日(日)
12:00~18:00
金・土・日オープン


今回のグループ展は「赤」がテーマになっていて、参加作家6人の作品のいずれにも赤が含まれています。
出品作家もみなさん面白く、色で縛ったグループ展もなかなか珍しいので、お近くに来られる際は是非お立ち寄り下さい。


・・・はい、それでは前回前振りで終わってしまったオルテガの「芸術の非人間化」について、後半というか本題に入っていきます。
前回は、現代美術によく言われる「分からない」という言葉から、そもそも何故「分からない」という感覚が引き起こされるのか?というところまで書きました。
今回は、この「分からない」という感覚に対するオルテガの見解を簡単にまとめてみます。


オルテガ曰く「新芸術は宿命的に不評である」・・・なんか身も蓋も無い意見ですね。
ただ、不評であることと評価を得ないことは区別しなければならないとオルテガは言います。
ここで言う新芸術とは「表現主義以降の芸術、マラルメ以後の詩、ドビュッシー以後の音楽」を指していて、今で言う現代美術の黎明期の作品になります。
これらの作品は、いずれも19世紀末から20世紀初頭にかけて生み出された作品で、それまでの芸術の流れから見ると難解とされていました。


ではなぜ、難解なのか。
それまでの、特に19世紀に支配的であった芸術とは「浪漫主義」や「自然主義」であり、写実という共通の基盤を持っていました。多くの絵画、詩、音楽、演劇などの作品は「一度は行ってみたい風景」「会って見たい人物」「参加してみたい出来事」を見えたままに、もしくはそう見えるように忠実に描き、それを見る鑑賞者は自分たちをそこに投影し、人間の運命とその諸々の感情を受け取ることを作品に求めます。
つまり、芸術とは、興味深い人物の諸事件に接する手段でした。
それは、人が事態・人物・事物を「生き」る視点であり、「人間的」現実であるということになります。
そして、多くの人々にとって「美的快感」とは、そのような心の動きと本質的に区別しがたい心の状態であり、作品にはそういった心の動きを与える「人間的」なドラマが求められていました。


しかし芸術作品が描き、あるいは語る人間の運命を悲しんだり喜んだりすることは、真の芸術理解の喜びとは異なるというのがオルテガの見解です。
本文中に述べられている視覚的な問題に置き換えた例をあげると、窓外の庭を見る時、私たちは窓を通り過ぎて庭の植え込みか花に到達するように目を調整します。その時、まっすぐに庭に視線を向けていれば窓を意識することは少ないでしょう。しかし、私たち庭を無視して窓に焦点を当てるように目を調整することも可能です。そうすると、窓の先にある庭は見えなくなり、窓ガラスに映った色彩のみを受け取ることになります。庭を見ることと窓を見ることは2つの異なる調整方法が必要になり、それらは互いに相容れない操作になります。
同様に、トリスタンとイゾルデの感動的な運命に心を奪われ、そこへのみ目を調整する観客はもはや芸術作品を見ることができず、シャルル5世の肖像画は画像=虚構として見ることによってのみ芸術作品として触れることができるようになる、ということです。


ところが、芸術作品という透明な窓ガラスに視覚を調整できる人はそれほど多くなく、そしてそういった鑑賞方法に慣れていないため、人々はだいたいそこを素通りして作品の扱う人間という事実に熱中する。人間という事実に熱中し、悲しみや喜びに感染している間は自己の感情の中に喜びを見出し、本当に作品自体を見ていないのではないか。
そして新芸術(現代芸術)とは、真の芸術理解を目指す過程で作品から「人間的」現実を取り除き、より純粋に芸術的な芸術を求めて「非人間化」して行くため、多くの人々にとっては「分からない」作品ということになる、というのがざっくりとしたオルテガの主張です。


他にもオルテガにとって新芸術とは人々を「大衆」と「貴族」に区別する作用があり、「新芸術とは大衆社会に埋もれたエリートに自分と同族を発見させ、抵抗する少数者としての使命感を意識させる」という少々物騒なことも言っていて、この大衆論が後に執筆される「大衆の反逆」に結びついていきますが、そこの話はまた別の機会にでも。
ただ、「大衆の反逆」の中では新芸術の評価はあまり高くないので、どこかで芸術の限界みたいなものを感じたのかもしれません・・・。
この「芸術の非人間化」の中でも新芸術の動向は評価するけど、個々の作品にはまだ評価するべきものはないって言ってるし。


ということで、「分からない」という感覚が引き起こされる原因について、オルテガの「芸術の非人間化」から考えてみました。あまり上手くまとまらなかった気もしますが・・・
本文はこの後もう少し続いて、後半では芸術が歴史の中で担わされてきた役割と、新芸術がそこから自由になったことで起こるアイロニーについて書いています。
余力があればまた書く・・・かも・・・


とりあえず今回はここまで。
それでは。

どうもです。
3月だというのに寒い日が続きますね。
一昨日なんか吹雪いてましたよ。
バイクに乗ってたら前真っ白でしたよ。
吹雪の日にバイクで走ると外からは雪が張り付いてくるし内からは息で曇ってくるしで定期的に手で雪を落としたり曇りをふき取ったりと忙しないので腕が3本あればなぁなんて考えているうちに事故らないように気をつけて下さいね。


ということで、今回は最近読んだ本について少し。


スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットの「芸術の非人間化」という本について。
オルテガは20世紀初頭のヨーロッパで活躍した人で、大衆の性質を見抜き、それが社会にどのような影響を及ぼしているのかを論じた「大衆の反逆」などが有名です。
オルテガは文明論や国家論以外にもゴヤ論やベラスケス論などの芸術論もいくつか残していて、「芸術の非人間化」もその一つです。本書は「モダニズム」と言われる19世紀末から20世紀にかけて美術や文学、建築などに大きな影響を与えた芸術運動について論じています。


現代の芸術がよく言われる「分からない」という言葉。
所謂現代美術と呼ばれるジャンルの作品を制作していると、この「分からない」について考えたことがある方も多いのではないでしょうか。
この言葉を噛み砕くと「どう見ていいのか分からない」というニュアンスが多く含まれているように思います。
これは、例えば「何故この作品が評価されているのか分からない」や「どうやって作ったのか分からない」などの「分からない」とは質が違います。
後者の場合は、明らかに見る人が自分自身、もしくは第3者が持つ基準に照らして、相対的に判断しているのに対して、「どう見ていいのか分からない」は、例えその作品が第3者になんらかの基準で判断されていたとしても、見る人が基準を持たず、あるいは持てずに判断しようとしているからです。
そういった体験を敢えて作り出すのが現代芸術という見方も出来るのですが、しかし反面、どう見ていいのか分からなくなった途端、意識は作品へ向かうことを止め、思考が本人と作品の間で行く当てもなく宙吊りになるような感覚に陥ってしまうこともありえます。
そして行き着く「分からない」は、一種の諦めに近い感覚なのかもしれません。


この感覚に対する解として、分かりやすく説明するためによくスポーツのルールに例えて説明されたります。
要するに野球のルールを全く知らない人が野球の試合を見ても理解できない、ということです。
確かに、昔インドに行った時に、ホテルのテレビで毎日クリケットの試合が流れているのを見て、分かんないなーと思いながらぼんやり見ていた記憶があります。ちなみにクリケットはインドの国技で、試合中にティータイムがあります。
つまり現代芸術を理解するにはある一定のルールを知る必要があるという論法。


なんとなく分からなくもないし、納得もしやすいので長い間自分の中でそういうことにしてきましたが、よく考えるとこの説明では、ルールを知れば見ることが出来るようになることは分かっても、そもそも何故「分からない」という感覚が引き起こされるのか、という説明にはなっていません。


この「分からない」という感覚に関する問題は、言葉の持つ抽象性と各々の感受性の差異も相まって、かなり漠然としています。
どこに基準を置くかで、随分違った道筋になっていきそうです。
オルテガの「芸術の非人間化」は1925年に書かれたこともあって、20世紀初頭の芸術を19世紀の芸術との比較で捉え、モダニズムで起こった転換とそれによって引き起こされた「芸術の分からなさ」を明確な言葉で説明しています。


ということで、前振りが終わったところで次回に続きます。


そう、まさかの前後編。
思った以上に前振りが長くなってしまったので・・・
じゃあ冒頭の吹雪のくだりいらないんじゃね?という気もしますが。
また近いうちに後編を書きます。告知もあるし。
ではでは。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


毎年思いますが、年末の速度はスゴイですね。
アレもしないとコレもしないとと思ってバタバタしている内に気がつけば年を越してしまっていて、振り返ると結局アレもコレも終わらずに積み重なったままっていうね、、、
それを見ながらあちゃーと思いつつ、とりあえず気分だけでもリセットです。お正月だし。


昨年はそれなりに収穫のある1年でした。
具体的にどうということではありませんが、今後の作品の方向性についてある程度明確なったように思います。
前回のブログにもチラッと書きましたが、昨年10月の展覧会で展示した作品の制作が難航したのが良い経験になりました。
色々と失敗してあーだこーだやっていたおかげで前回の展覧会だけではなく、その先の作品にまで繋げていけそうな種を蒔けたのではないかと。今はそんな風に感じています。
当然のことですが、展覧会とは他者に向けて作品という一つの形を提示するものです。しかしそれと同時に作者が自身の作品を一定の距離を持って眺められる機会でもあります。多分、作者自身から作品が自立するというのは、作品が完成した時ではなく展示をした時で、仕上がった作品を眺めながらそんなことを考えさせられる展覧会でした。
まぁ実際制作を進めて行くとまた変わって行きそうですが、蒔いた種を回収しながら新しい作品に向かっていければなぁと。制作中はどうしても周りが見えなくなってしまうので、もう少し意識的に作品を構成していきたいですね。


そんなことを言いながら最近は制作もほどほどに本ばかり読んでいます。毎度のことですが、展覧会前は全く読めなくなるのでその反動でしょうか。
最近は主に美学史に関してなんですが、プラトンからダントーまでの美学史を駆け足で辿ってみて思うのは、やはりどうしても近代(特に19世紀末〜20世紀初頭)の思想や作品に惹かれてしまうということです。私の頭の作りが古いからだというのはさておき、この時代に考えられていたことにはまだまだ汲み切れていないものや、現代にまで有効なものが多く残されているように思います。
それは西洋に限らず日本の美術にも言えることで、岡倉覚三(天心)やフェノロサが軸となって築かれた近代日本美術についてももっとちゃんと学ばないといけません。
自分のやっていることがどこから繋がってきていて、どこへ向かおうとしているのか。
作品一点一点だけを見ていては分かりにくいですが、この先何年もかけて行っていく制作活動の中で自分の足は何を踏みしめているのかを考えていくことはきっと有効なはずです。


そんなことを今年の抱負としながら今回はこのへんで。
みなさんにとっても実りのある1年になりますように。

どうもです。2ヶ月ぶりの更新になります。


もう10月なんですね。気候も随分すごし易くなってきてかなりホッとしています。
8月9月を思い出してみるととても暑かったということと煙の匂いしか思い出せません。
記憶がクラッシュしてしまうくらい異常な暑さだったのか、煙の匂いくらいしか思い出せないほど何もなかった夏だったのかはさておき、ほぼ毎日何かを燃やしていたというのは確かです。


ということで、展覧会の告知に入ります。


『かぎろいの輪郭』


2013年10月4日(金)~10月27日(日)
開廊時間:金・土・日 12:00~18:00
会場:eN arts


前回のeN artsの展覧会で直接壁を燃やした(ような)展示を行ったことが、自分にとっては一種の極点を示したような感じがしていたので、今回の制作は随分と難航しました。
今年の前半に行っていた制作もなかなか形になってくれず、7月終盤に一旦それらの作品を脇に置いて方向性を切り替えたのですが、切り替えたら切り替えたでまた色々と問題も出てきます。
しかし、悶々としながら闇雲に手を動かす中で、一つ、また一つときっかけのようなものが見えてきて、それを積み重ねることで結果的になんだこれ?(良い意味で)という作品が出来上がりました。
実際、完成した作品の前で私が一番発した言葉もなんだこれ?(あくまで良い意味で)でした。


頭ではなく、手でものを考えていくという感じといいますか。もちろん頭で考えたことをアウトプットしていく作業も重要ですが、ものを作るとはこういう面もあるのだということを作品に教えられたような気がします。傍から見れば見ればそれほどの変化は感じないかもしれませんが・・・
・・・と、ここまで書いて何気なく過去の自分のブログリレーの記事を読み返してみると、去年も一昨年も似たようなことを言ってますね・・・


う~ん、成長がないというか、進みが遅いというか。
まぁ、ラーメン屋が急にカレーも始めたなんて言い出したら危ない感じもしますし、急激な変化は体に毒なので良しとしましょう。
そういえば、最近気づいたのですが、私が本格的に火を作品に取り入れ始めてから今年で10年になります。10thアニバーサリーです。ディケイドです。
だからどうしたという話ですが、火を使い始めたときにとりあえず10年もやれば何か見えるかもしれないと考えていたりもしましたが10年経っても相変わらずです。
ただ、幸運なのは10年経ってもまだ次が見てみたいと思えていることでしょうか。
そう思わせくれる「火」という題材に感謝しながら、次の10年も頑張って行きたいと思います。


それでは、お時間がありましたらよろしくお願いします。

ephemeral.jpg

どうもです。毎日暑いですね。
現在の制作場が3階建ての元工場の最上階にあり、天袋的な熱を遮断する機構が一切なく、天井が即屋根になっているため昼間は完全にサウナ状態です。汗ばんだ肌に虫がそのまま張り付いてくるといった具合です。まさに人間とりもちです。しかもその中で更に色々燃やそうとします。少し頭を冷やした方が良さそうです。


先日、携帯をiphoneから所謂ガラケーに変えました。変えた理由としては、通信費に毎月1万弱のお金を支払うのがアホらしくなった、というか気づけば電話とメールしかしていない、そもそもiphoneを全く使いこなせていない等々、一言では言い尽くせない諸々の事情が重なったためですが、まぁ要するに「お金がない」ということです。
それで携帯ショップへ行ってパケホーダイを抜くなどして料金を極力安く抑えて無事機種変更も完了かという時に、ふと沸いてくる疑問が一つ。「電話帳の移動はどうするの?」
店員に聞いてみたところ「こちらでは出来ません」と。


え?じゃああなたたちのお仕事はなんですか?という疑問はグッと堪えます。
機種変更代に3000円もかかるのに?という疑問もグッと堪えました。大人です。
出来ないものは出来ないので店頭でゴネても仕方ありません。


自分でなんとかしますと店を後にしたのですが、ここからが大変でした。携帯でネットが使えなくなるのは多少不便でもあらかじめ承知していたので良いのですが、電話帳まで移動できないとなると話は別です。まさか二百件以上のアドレスを全部手打ちするわけにもいきません。数字一つ間違うだけで鈴木さんにかけたつもりが佐藤さんにかかってたということになりかねません。携帯を手放そうかと一瞬考えましたがなかなかそういうわけにもいきません。


結局、自宅のwindowsやら仕事先のmacやらネットの知識やらを総動員して無事なんとかなりましたが、途中移動したデータが文字化けをおこしたり、データを読み込んでくれなかったりと散々でした。ガラケーからiphoneに変えるときは電話帳移動のアプリも豊富にあり、特に問題も無くスムーズに出来ましたがその逆をやるとなると結構手間隙がかかるもんですね。
時流に乗るのは楽ですがその逆は案外厳しいということでしょうか。
そりゃ谷崎潤一郎も「陰影礼賛」を書きたくなります。
話をまとめるとただの愚痴です。


さて、前置きというか愚痴が長くなってしましましたが近況を少し。
今年に入って2ヶ月毎に行っていたグループ展も一段落して、現在は10月の個展に向けて制作を進めています。
場所は去年一昨年に引き続きeN artsになります。
こちらも時期が近づけばまた宣伝させていただきます。
現状思ったように制作が進んでいないので冷や冷やしていますが、、、


そんな制作の合間に読んでいて面白かったのが小林秀雄の「近代絵画」という著書。
小林秀雄は今年のセンター試験の設問にも取り上げられたことで話題にもなりました。今年で没後30年なんですね。
この「近代絵画」ではボードレールに始まりモネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソなど所謂近代絵画の転換期を担った作家について論じているのですが、その語り方が独特で面白かったです。
作品や背景の美術史を踏まえた形式的な批評はそこそこに、筋のほとんどは作家の書いた手紙や知人に遺した言葉を基に、作家がどのような人生を送り、何を考えて制作していたのか、まるでその作家の代弁者であるかのように寄り添った人間ドラマ的な内容でした。


その内容の性質上、美術関連の本や雑誌ではほとんどこの本について言及されることがないようで、確かに少々誇張の気はありますが、それでも作家が遺した作品や言葉からここまで作家の心理を考えられるというのは見事だと思います。
もうゴッホ、ゴーギャンの項は読んでて辛い。改めて辛い。


なによりこの本、内容も然ることながら文章がとても綺麗です。
文章を目で追っているだけで心地良くなって進んでいく感じ。進んでいく内になんとなく分かった様な気になってよくよく考えると実はあんまり分かってない(僕の頭では)、それでも次が気になってしまう質の文章です。
文章に対して芸術的だなと感じる稀有な経験でした。


ではでは、長くなりましたが今回はこのへんで。



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