アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

7月ですね。
 
 
毎度、&ARTブログ〆切近辺で進行案件が重なり、ついついこちらには対応できなくなる。事前に準備していればいいのだが、そんな計画的な人間なら美術のお世話なんかにはなっていないのである。
納品関係遅れまくってる関係者各位にはこの場を借りてお詫びしたい。まったく一社会人としてどうかと。

 
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パラモデルの 世界はプラモデル
西宮市大谷記念美術館/兵庫
撮影日:6月24日~7月1日

 
 
目下、開催中/制作中のパラモデルさんの大規模な個展。
同時期に青幻舎さんから出版される初作品集に、今回の美術館での新作インスタレーションカットを冒頭に差し込むと言うことで、ちょうど昨日(7月1日)、作品集用の写真を撮り終え、デザインの豊永さんに納品し、本日入稿予定の関係者過労気味の進行でございましたよ、ってまだ終わってないな。
展示も本も相当のボリュームで、是非、両方ご覧いただきたい。
 
まとまって拝見したのは初めてだったが、どれほど引き出しがあるのか、制作量の多さとその実行能力に脱帽した。
一つ一つは、プラレール/配管/おもちゃ/ただの箱/etcetc......チープな質感のものだが、それぞれの取捨選択、ディープなリンクと得体の知れない完成度を、あるボリュームからモノと空間が持ち始める。
 
 
展示撮影について。
決まったカットになったか、僕には分からない。どうにか一部を撮ったという感じ。
作品集用のカットは昨晩、納品後のページレイアウトを見て、現条件でのベストだと思ったしその感触もあるにはあるが、会期冒頭での撮影では全貌を撮ることができないので、やはり残念さはある。
撮影した5分後にものが増えている/景色が変わっている、というのは会場につめた4日間、何度か味わい、その度に突っ込みたくもなった。冒頭1週間は公開制作中なので、もちろん変わることは確認の上で撮っていたけど、Fixだと思っていた展示室や廊下の片隅、外の庭園、におそらく予定せず反射的に建設されているのだからたまらない。たった一つ空間にアイテムが増えるだけで他の全ての見え方も変わってしまう。
公開制作期間の一応の設定はあったが、本人たちは会期終了まで作り続けるご様子だ。撮影時、ほとんど手つかずの部屋も二つばかりあった。
 
タブローも新作を含め、まとまって展示されている。
パラモデルと言えば空間展示の印象を持っていたが、こちらのずいぶんな量とそれぞれの完成度の高さも大変見応えがあった。ドローイングの量も、空間展示の密度の濃さを裏付けさせる制作量で、こちらも多く展示されている。また、最初にタブローをまとめて撮ったおかげで、その後のインスタレーション撮影の方向付けができた。
タブローやドローイングの多くがそう感じられたが、作品は透視図法、よりは投影図法または図面として描かれ、ありがちな遠近法は採用されず消失点も描かれていない(例外はあるにせよ)。風景、また図面には交差するファジーな遠景は設定されていない。現実には消失点なんか存在しないが、平面の見かけ上で曖昧にできるこの点を回避する姿勢が、たとえばパイプやレールの展示における増殖していくボリューム/方向性を導いているような、そんな感じ。極めて実作業を意識させられるタブローに僕は思えた。
で、展示撮影では巧いことそれを表せるようアングルを探す訳だ。作り込み過ぎなのは承知しているが、いわゆる鑑賞者の一般化された視点が本当に有効か、僕は疑わしく思っている。誰かを代表なんかしたくないし、できる傲慢さも持ち合わせてはいない。
 
出版は少し先なので実際に使用したカットはお見せできないが、没カットや制作風景などで雰囲気を感じていただければ。ご覧になるのは会期後半がベター、だとは思う。僕も終わりを見届けたい。
 
 
 
Art Court Frontier 2010 #8
アートコートギャラリー/大阪
撮影日:6月24日

 
こちらも大変なボリュームの展示だった。
鑑賞者として、また記録撮影で関わってきて、今回が一番見応えのあった展示に思える。
世界各地を放浪しまくっている大西さんと久しぶりに再会でき、写真で見ていたグルーガンの実作も拝見できた。
チープな素材をそのままに、単純なアクションで美しい効果を作り出し、そのチープさがギャップ要素として全体を柔和なバランスでまとめる作品を作る人、という印象だったが、新作の溶けたグルーの禍々しさと、それがビニールの柔らかい稜線として形作る表情のギャップと、素材を行為または別の素材で掛け合わせて異化させ、別の素材「感」を出現させ、つぎはぎ合わせる作品を作る人、という印象に変わった。
7月以降また別の土地に行かれるそうだが、またどこかで撮らせていただきたいと思う。
 
& ARTの木内さんも出品されている。以前インタビューの際お世話になったが、話は真面目だけど、作品(ついでにブログも/本当にいい意味で)アホだと言うことが良く分かった。笑わさせてもらったが、単純に笑いを誘うのではなく、笑う者にも悲哀を逆照射する道化を演じられている。

その他にも中庭を養蜂場にしている埋橋さんの作品/まさかギャラリーの撮影に来て蜂のシャッタースピードを考えさせられるとはな/や、入谷さんの絵画など見応えがある。今月24日まで開催中で、こちらも是非ご覧いただきたい。
 
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あと来月書く予定だがもう一つこれにかぶって進行中の件がある。
誰とは言わないがパラモデルさんも名和晃平さんも京芸出身者のこだわりには本当に学ばさせてもらっている。
30半ばに、ある一線を超えるかどうかでおそらくその後も変わるんだろうが、多分若くからこんな感じなんだろうな。
 
自身の作る、という事も考え時ではある。

6月ですね。

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先月末、2泊3日で長野の野尻湖に合宿と撮影に行ってきた。
ある企画がこの辺鄙で快適なリゾート地で進行中だが、ランニング前のコンセプト固め/ビジュアル化作業の撮影を担当させてもらった。まだ形になっていないが、色々なジャンルの「作家」にとって興味深い企画だと思う。

野尻湖の表玄関からさらに深く、冬期は豪雪で閉鎖されるほどの奥地にポツンとあるシャイニングなホテルが舞台。不案内なもので清家清という建築家を初めて知ったが、H鋼とレンガの使い方が印象的でかっこいい建築だった。周囲の森も丁寧に整備されてC・W・ニコルがひょっこり現れてもおかしくない所だ。実際ニコルは近所にいるそうで、たまにスープを振る舞ってくれますよとホテルの方に言われたが、そんな妖精みたいな事。ちなみに妖精は現れなかった。
妖精の事はどうでもよくて、とにかく、この場所を、作家に、あるいはスポンサーに、見せる、かつ制作/投資欲の湧く、そんな写真資料がいる訳ですよ。車で延々6時間、そうそう何度も来れないので滞在中に撮りためる。夜明け前から夕方まで撮って撮って撮って、合間に打合せて打合せて打合せて。霧さえなかったら夜空も撮ってたかもしれない。ありがとう水蒸気、ぶっ倒れる所だった。
ハードだったが、撮影、打合せとその場に居る事がすべて思索に繋がり学びになった。
現在、個人事業主で仕事をしているが、仕事を共有するチームみたいなのもある。滅多に全員集合しないが、今回缶詰で一緒に時間を共有し、今後の中長期の展望をじっくり話し合う事ができた。また建築家、プログラマー/デザイナー、と普段お会いしない方々の話も拝聴したが、作品もプレゼンもただただ脱帽するばかりだった。インスピレーションを得る方法、アイデアの現実への落とし込み方、生臭い営業/仕事の現場への視点、挫折からの立ち上がり方、年齢もさして変わらない方々だが、言葉の節々に示唆深い経験の厚みを感じる事ができた。で、共通しているのがおそらく楽しんでいる事。仕事=制作にするためには陽気さと血反吐が必要な様だ。
進行中の案件だが、おそらくたまに行く事になるので、また報告したいと思う。
道中が日本アルプスを横目の絶景高速道路で同乗のKさんと大層盛り上がる。これは通いたい。
プログラム化したら& ARTの作家さんにもおすすめしたい。食事がとにかく、美味しい。京野菜なんて。


先月と併せて展示撮影について書いてないので、一つ。
studio 90はまたも暗かった。恒例ですね。
山岡敏明さんの個展、13日まで開催中です。
以下テストだがもう一度撮影に向かいますのでこれもまた報告したいと思う。
では。
 
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10月にギャラリー揺(ゆらぎ)で中村裕太君と作品展を行う予定。
山から郊外、という大ざっぱな括りでそれぞれの作品と繋げる事が出来ればと思っている。で、リサーチがてら鈴鹿山系の霊仙山へ行ってきた。実際にぶらつきながら考え、作品、展示をまとめて行こうという算段。
郊外担当の中村君は廃タイル収集をきっかけに作品を構成する。
さる御方から滋賀には廃村がたくさんあるわよ、色々落ちているし拾ってきたら(私も器、拾ってきたわ!)、と窃盗幇助めいた助言をいただき(肝心の場所は随分違っていたが)、それなりのテンションになった我々は期待だけでまんまと向かった次第である。
僕の方は作品案が腑に落ちていないので思い切って主体性を放棄し、行けば何か撮るものがあるだろう場当たり精神だけで大判カメラを持って行った。挙げ句ちゃんとパッキングしておらず三脚を中村君に担がせて山道を進むという体たらくで、まことにすまん。
ことわりを一つ、廃墟探訪趣味は微塵もない、これは行ってみて再確認された。
何かあるだろうとは思っていたがあまりにリアリティがある/ない場所で、わざわざ自分が作品化することもないだろうし、そうすることもためらわれた。
写真を撮るという違和感には作品化する違和感が含まれる。第三者に見せるという前提があり必然的に考慮するのだが、そうして写真に撮る事で何かを期待する事、何かを撮り、たとえば風景の何かを自身の一部として所有できると考える傲慢さ、後ろめたさ、作品化した際にそのことに無自覚であると見られたくない小っちゃな顕示欲、普段の生活圏で朧げに思っていた事がこれでもかと発露されるような場所だった。
結局ポラだけきって帰ってきた。やはり何も無い。
同行者に荷物を持たせておいて撮らないのかよざけんなという感じかもしれないので、いや撮りますよという見栄と贖罪意識だけで撮ってみた、色々とまことにすまん。
ちなみ上のようなひねくれた考えなので、カメラを持って街でスナップとか全くしない。きれいな写真は世界中のどこかの誰かのFlickerなりで適当に探せばいいし、そもそもカメラをぶら下げて歩くのは壊れそうでいやだ。
事実は小説よりもはるかに奇で、自分の小説は全然堅固じゃない。世の中に奇な作品はたくさんある訳でどうにかシフトしたい所ではあるが。


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写真は露出計代わりのデータ。
終戦後に捨てられた村で、今では登山者向けの山小屋だけだ。周辺の国道が石ころで舗装されているとは思わなかった。
もう一つ、20〜10年前に廃村になった村もあったが生々しすぎてカメラを向ける気にまるでならなかった。撮った所で何がアートか。


毎度の仕事の事。今月は書きたいものはあるのだけど言語化に至っていないので保留します。(neutronでの稲富淳輔さんの作品など、良さが言葉になっていないし写真にも出てこない)


効率良く仕事をこなしていく事と、最短経路にて最大の効果を導きだす事は違う。経路は時に霧中、という事もあるので厄介だ。
作品を撮影するという事は記録という当然の面と、もう一つイメージに変換して流通する/されるという面がある。
どう使用するか、どう広がっていくか、後者に関してはコントロールできるものでもないが、両者に無自覚ではだめだろう。そこで作品自身の撮り方も変わってくるからだ。
光源を決め撮影角度を決め、試行錯誤するのも研鑽の立派な一部だが、一歩引くとそれすらも画一的な作業になりかねない。どうシフトしていくのか、撮るだけではどうもだめだ、と(これは先月と同じ結論ではないか。)。
ということを先日お世話になっているカメラマン/デザイナーから実地で教わりましたが、具体例として提示できるものが出来たらまたポストします。

今月はたまった領収証を整理して申告して疲れて風邪引いて咳して胸やられてもう疲れました。
しっかり帳簿をつけておかないと肺が悲鳴をあげるなんたる自業自得。


2月の反動か作品写真をがっつり撮るという事が少なかったんで何を載せようかと考える次第で京都市美関連を2つ。

 
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川島テキスタイルスクール修了展
京都市美術館


個々人の作品、展示空間を撮影。
卒制シーズンも終盤、大学では無いのであまり知名度はないけど、染織、ファイバーアートの専門学校。アート作品もあるが、元々が工芸の学校であり、制作もその辺と重なるので総じて仕事が丁寧である。卒展鑑賞は面倒さで近年ほとんど見ていないが、仕事ついでに立ち寄った母校の精華の卒展よりはよっぽど面白いしレベルも高いと思う。個々の内容の質はガーリーなもの課題的なもの単純な発想のもの、もあるにはあるが、全体の他者に対する、見せるという姿勢が違っているように思える。工芸ってごまかしが効かないからそういった意識が育ちやすいんだと思う。


精華はビジュアルだけは展示も他とは別物で内容も楽しめ面白く、記録撮影をした事もあったので(必要なレベルであるという事)評価できるが、他の分野のすかすかな感じがなんというかこんなもんか、こんなもんだろうな。

 
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(精華大ビジュアルデザイン学科卒展風景>>開放的な1室を全面人工芝を引き、ブースに区切り展示、学生が常に応対したり任天堂Ds使ったりと企業のショーを見ているような感じではある)

 

斜に構えて自身のものだけ追求する姿勢は理解できるし、ご多分にももれず僕もそうだが、面倒な作業ではあるけど初期段階から全体の底上げを図らないといくら才能があろうが単なる量に埋もれてしまうのではないだろうか。別段卒展がすべてでは無いが、でも外部も見る気を無くしますよ。大学真冬、就職厳冬時代だけど分かっているんだろうか。(高い学費ですよね。)こうやって上から偉そうなのも外野ならではの無責任な発言だけどもうなんというか悲しくなるので毎年毎年同じ事やってるだろうしそろそろ気づいてがんばって欲しい。特に先生方。


あと市美の壁の汚さは展示するよりモニタ上でスポット修正する立場になって腹が立つ。


でもう一つ、川島修了展の隣でやっていたのが、日本山岳写真協会70周年記念展「2009山・われらをめぐる世界」とすごいタイトルだがこれがなかなか面白かった。
100点を超える出品作がすべて山の写真。よく考えたらこんなインスタの経験ない。
参加者のほとんどが定年後の方々なので平日でも観客がとても多い。


作品量が多くすべてが同一の「山っぽい写真」の展示に錯覚される。たくさんの晩秋があって各々の凍てついた山肌があってみんなに早春の息吹がある。作家性がどこにあるのか皆目検討がつかない、aとbのオリジナリティの差なんて判んないのである。みんなきれいな写真。
で別に、批判している訳でもなくて(日展に突っ込み入れる無益さとも言えるんだが、それもこれも貶めるつもりはまるで無くて)、こういった個別性の消し方もあるのだねと。多分、オリジナルである欲求がないのか、あっても外部に移行するまででもないのか、その方法が無い/思いつかないのか。


我々と言えば語弊があるが「現代美術」もほとんどそれと同じようなもので、気づいて/気づかずして没個性化する内部に留まる事も出来るし、いい感じで上部へシフトもできる。どちらが優れているか、など歴史に任せるものだからどっちでもいい。


展示写真なんかいいカメラといいレンズで水平垂直きっちり出して目線近所にセットしてそれなりに作品がフレームに収まっていい光をきれいに選択できたら目出たく僕の仕事もなくなるよな、とか思いながら、どうやって上部にシフトするんだろうか模索しているんだが。今ひとつ打開策が無いのでこの春はいいカメラといいレンズを買っていい組織を作る準備をしようと思う。

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小泉明郎
「A LOVE SUPREME / 至上の愛」
Gallery RAKU
撮影日 2月12日、13日

 
 
5年前、アムステルダムのアーティストインレジデンスへ面接に行った際、当時の滞在アーティストであった小泉さんには大変お世話になった。面接の前日、みんなで餃子を包み、煮て焼いて、白米の黄金コンビの夕食をいただいた。緊張と貧乏でろくな食事をしていなかったのでこれは大変なごちそうになった。結果不合格ではあったけど、いい思い出になった。
以来お会いする機会もなかったが、今回の展示に伴うパフォーマンスと、浅田彰さんとのトークイベントの記録撮影を依頼され、というか半ば志願して再会する事ができた。せめて恩返しではないが、2日間みっちりと撮影させてもらった。

これまで制作されてきた「男たちのメロドラマ」、実在の人物を小泉さん自身が演じるパフォーマンス作品の三作目は、京都、金閣寺を炎上させた僧、また市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹、介錯された三島由紀夫をモチーフに制作されている。
暗い現場(会場という響きが似つかわしくない)には、粘土製の三島の生首がころがり、僧侶(おそらく)のマスクが釣られ、中央には割腹用の畳が二畳、短刀や粘土が準備され、奥に日の丸の祭壇とスクリーンが設置してある。
パフォーマンス記録用のビデオカメラが三台設置してあるが、これは制作/記録とともにライブでパフォーマンスの一部にもなる。 
 
介錯人と観客が君が代を唱い、小泉さんは祭壇に向かいマスクを冠る。
切腹場に座る小泉さんのちょうど男性器の場所に粘土をこねくり回す台がある。ハンディカムがアップでその粘土を撮影し、もう一つのビデオで撮られた小泉さんの頭部とともに後方のスクリーンに映し出される。口中にしこまれたマイクから爆音でノイズ化された声が響き渡り、主人公は粘土を性器に見立てマスターベションを始める。後方のスクリーンでは粘土と小泉さんの頭部が重なった映像が流れており、観客には自分自身の頭をいじり回してエレクトしている様が見える。時折言葉にならないうめきのようなアイシテイマスが響き、絶頂の中、金色のラッカーが『性器』にぶっかけられ、潤滑油の様なヌルヌルした着火材でさんざんいじり回された『それ』に火が着けられ、匕首で切り取って祭壇に生けて演目は終わりである。
言葉では全然つまらないので是非会場で拝見していただきたい(と思ったら会期は終わってしまった残念、またの上映を是非ご覧いただきたい)。

NGとは虚構から素に立ち戻る地点で、通常は笑いどころである。上演中、手に着いた着火材に火が回り、小泉さんも結構慌てているように見え、また陰毛の焦げる臭いまでが立ちこめてさすがにヤバいかな、と思わされたが、続行された。私は笑いをこらえつつシャッターを切り続けた。同時に思うのは、このヤバいという感情、中断し、興奮やら何やらの虚構が一挙に断ち切られ、やっぱりな、という素に戻る感覚、もしかしたら救済措置かもしれない。これが美意識として出来なかったのが三島由紀夫ではなかったか。あげく失笑も意に介さず素に立ち戻れず(戻る必要の有無は知らないが)、腹を切って死んでしまった。
 
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もう一つ、後編であるがトークイベント。
浅田彰さんとのトークは三島論で盛り上がったが、途中の質疑応答で厄介な親父にマイクが渡ってしまった。そこで小演説を一席始められたのである。たいした内容ではない、今の日本はいかんだの、正しい歴史認識だの、首相の子供手当はなんだの、司馬史観好きの親父で、なんの疑問もなく固定した価値観でただこの場で演説ぶりたいだけの親父だ想像に難くないだろう。会場のなんとも嫌な空気を想像されたい。誰かが制止するんじゃないかと思った。
浅田彰は大人である。長ーい質問(という演説の)後、その司馬好きの質問者のメンツもつぶさずさらっと流し、状況を立て直す。三島のアンチとしての司馬→新撰組血風録→映画御法度→男同士の友情の様な性愛とそれって三島の楯の会ですよねと、話を広げる抜群のレシーブである。

対して小泉さんは何か違う目で見ていた。会場中がうんざりしていたが、そんな異物を相手に、前に来て演説を始めてくれと進めだした。積極的にこの異物を、美術が大好きなんですという観客たちとの一見真面目な状況に取り入れ、本来の目的から逸脱したシュールな場に変容させようとする、ような制作スイッチが入ったんじゃないかと思えた。うがち過ぎにもほどがあるな。
今回のパフォーマンスもそうだが、モチーフや演技の取捨選択のセンス(という横文字よりも異能とか特殊能力とかそんな類いだが)それが小泉さんの作品の魅力という所か。イベント終了後、小泉さんは真っ先にその親父に駆寄った。
 
 
 
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京都オープンスタジオ2010
撮影日 2月14日

 
& Artの特集取材。
小吹さんの完璧なナビゲートのおかげで、なんとか一日ですべての会場を回る事が出来た。どの会場も変というしかなく、どうやって見つけてきたのかと思わされる物件ばかりである。モノを作る執着のある人たちは概ねこの嗅覚に優れている。また移動車中、小吹さんとも話していたが、この年代のこういった物件のショーの仕方は何かの主張、ではなく極めて現実の延長線上である事が感じられた。売れる事がずいぶん身近で明確に設定しやすい世の中になったのだとも思う。関係者も結構来ていたようだし、設定上の最終日もあってか大層にぎわっていた。
写真はAAS(田中英行さんの個展「空宙の∞〜忘却の果ての歴史α〜」)にて東西のギャラリー王、幕内さんと小吹さんのツーショット。幕内さんはいつもそうらしいが自転車で京都中を回られたそうだ。すごいな。
個人的には兼文堂スタジオの感じがすごく良かった。展示もとてもよく、拝見できてよかった。またGURAも以前お邪魔した時よりもかなり完成度があがっていた。取材都合でゆっくり出来なかったのが残念だ。


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森川穣
「雨の降るを待て」
studio 90
撮影日 2月21日

 
昨年の募集案内チラシから関わっていた京都芸術センターの公募2010、出品作家の森川穣君の同時開催企画である。芸術センターでの展示は寺島さん、森川君、両人ともに空間を変容させ、好対照な展示で見応えがあり、また大変撮り辛い内容だった。詳細はいつかまた。


で、studio 90である。またも壁が黒くデジャブかと思ったが、これまでで最高に暗く撮影の難しい現実だった。
真っ暗な空間にいくつか天井から床にライトが落ちており、その先には水の入った器がある。よく見るとその横にも整然と器が並べられており、そちらには光も落ちておらず水も無い。暗いせいもあるのか空間がむっと湿気ている。
器の水は雨水と聞かされ、これは雨の日だけライトが当たっているという寸法だ。
3連続で器に光が落ちてそれぞれ水がたまっているのを見ると、天気予報の味気ない未来図とは違い、自身の記憶を辿って雨の体験を引き出す、経験した事のない微笑ましい感情がわいてくる。

ただ撮影には時間がかかった。LED光源は撮った事がないが、とても暗い。解放近辺でも10分程の露光時間になる。1カットとって微妙な構図の誤差や光の状態を修正し、撮影を繰り返す。ノイズが盛大に撮像画像に入りこみ帰宅後の編集も長丁場を予感させる始末である。
終わる頃には日が変わっていた。
写真はスタジオの屋根で雨水の入った器を変える森川君。作品はとても詩的な内容だが、深夜にこれは完全な不審者である。
ともかくもお疲れさま!

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泉洋平
「トけゆくシカク」
studio 90
撮影日 1月13日


ここしばらくstudio 90のギャラリー壁面は黒いままで、今回で3展示目だ。少しずつ塗り替えているそうなので、手を抜いているわけではないだろう(これは失敬)。影響し合うこともあるだろうが、自身の展示にフィードバックするイメージを持つ事、実験的なスペースだし気軽に実行もできるのだろう。ムラの無い黒い塗装はプロにお願いする必要があるので、白基調の一般的なギャラリーで1~2週間の展示のためには金と手間がかかりすぎる。誰を気にする事なく(少なくとも内部では)、容易に好きなことができるのが作家スタジオの利点で、部外者からしたら壁の色一つでもありがたくうらやましい環境だと思える。
 
泉洋平君は錯視を利用した空間作品を制作している作家さんで、& ARTにも掲載されている田中真吾君、森川穣君とともにstudio 90を運営している。今回の作品は、暗い空間に張り巡らされた糸に規則的に白い塗装がしてあり全体を観るとほの明るい立方体が出現するというものだ。
まず最初が肝心で、暗順応する前の状態が一番いい。唐突に真っ暗な空間へ連れて行かれると何も見えない。少したつと白い糸のラインがあることに気づくが、背景は変わらず真っ暗で空間の奥行きもわからず、また規則的な糸のおかげで立体視の状態になりさらに距離感がわからず、これが気持ちがわるくてとても面白い。慣れてくるにつれ、全体が見渡せ、細い何千本もの糸が見せかけのキューブを作っていることに気づく。おおむね空間が分かるほど暗さに慣れたら、その気持ちの悪い面白い状態も終わり糸の存在感を楽しむ寸法だ。
 
視覚トリックを使用した作品は三次元の空間を見せかけの二次元に変換し、そのギャップや種明かしも含めて半ば強要された楽しさを了解しつつ楽しむのが一般的には吉だが、人間の生理を発露させるような空間や数学的に凝りに凝りまくった作品をもっと観てみたい。泉君の今回の作品は実物の空間の迫力と格好良さと労力に圧倒されたが、アミューズメント、テーマパークも迫力と労力を夢と快感に変換する装置だ。それが目標ではない筈だ、とも思う。その差をどこに見いだせるだろうか。
 
複写をのぞいて、作品を写真に撮ることは何かスペクタクルに荷担している様な気がする。フラットに単なるプレゼンテーションとして齟齬なく取れればいいが、過剰に映る場合もあり、意図してそうする事も、意図せずそうなる場合もある。なんにせよ、映像か写真か言葉、作品を残すにはこの3つがほとんどで、どれも作品を語るには不足している。
ええと、たいした結論もありません。
 
 
 
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& ARTに近日掲載予定の木内貴志さんの取材に保育園へ行ってきた。
授業、保育園的に言えば、おえかきのじかんを拝見させてもらった。幼児慣れしていないが、同じく慣れていないインタビューアーと教室の隅に突っ立ったまま、園児たちの好奇の目をかわしつつ木内さんの仕事ぶりを拝見してきた。「カメラマンなのになんでとらないんですか」と園児の一人にえらく丁寧な口調でさぼりを指摘されてしまった。おじさんにはおじさんの都合があるんだよ。園児たちの質問にも応対したのだが我々の言葉はまったくと言っていいほど通らない。我々の言葉には興味がないんだろう、素無視はつらい。しゃべれども反応は希薄だ。僕ももう一人も育児の自身は確実に失せた気がする。

おえかきのお題は鬼、豆まき前に書いておきましょうということだ。木内さんのお手本は普通の鬼だったが、写真の彼女の鬼は禍々しさがよく表れていて、仕上げに血のような赤を塗った時にはインタビューアーと二人でうなったものだ。
 
ブログはまじめに書こうと思っていましたが、今回はなんというかすみません。

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山口義順
「entropicture」
gallery yamaguchi kunst-bau
撮影日12月4日

 
ギャラリーヤマグチには結構な量のカタログが置いてある。取扱作家のカタログが中心で、特にミニマルアートは見応えがあり蔵書目的で来てもいいくらいだと思う。撮影前に何冊かめくっていたのが間違いで、中でもDan Flavinの1989年、the Staatliche Kunsthalle, Baden-Baden(独)展示記録に随分とやられてしまった。ネットで見つからないので詳細は現物を探してくれとしか言いようがないが、教科書と言えるくらいの完璧な記録撮影で、仕事前にとても悪いブレッシャーを受けた。
作品がいいのは勿論、また写真映えもする作品だけど、写真屋がいい仕事をしている。光り物の蛍光灯作品と重厚な建築、屋外/内ともに最も映えるであろう光量と状態を選択する技量、画一的且つ退屈でいかにもなミニマルアートらしい構図に陥らず、リズムがあり全体を通じて破綻のない構図を選ぶバランス感覚。これだけ褒めていて撮影クレジットを見逃すってのは何だあれか馬鹿か。撮影中はもやもやと腕の差を噛み締めるばかりだ。

で、また展示作品も写真について考えさせられる。
山口さんの作品、entropictureは、映像を印画紙に直接投影し感光させたプリント作品、一見して写真だが、≠写真である。近作は花(らしい)の映像イメージ。イメージは映像的なブレやぼけでなんとなく判別できるが、対照的に非常に鮮明なプロジェクターのピクセルが最前面に層としてあるので、単純に像を受容することを拒絶させられる。またこの均質なピクセルのおかげで焦点が定まらず距離感も掴めなくなり(立体視の要領ですね)、現象として何を観ているのかわからなくなるが、アクリルマウントされた表面の物質感で現実の焦点を取り戻し、そのトリップした状態もキャンセルされる。平滑なアクリルがガラスモニター越しの映像受容を連想させる。

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デジタルムービーデータをデジタルスティルに編集する事を経由せず、ケミカルにアナログプリントした人もそうそういないのでは無いだろうか。映像データを紙に翻訳した齟齬から写真というものが逆照射される。かつて杉本博司は映像の光を真っ白けの無として定着させたが、現在我々が受容するのは同時非同時に照射し合う、編集可能なノイズだと思うよ。存在の前提が嘘で、・・・らしさしかないような。

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MUZZ 取材撮影
撮影日11月26日


宮永亮さん取材撮影
GURA
撮影日12月18日


00年代が終わり、次の10年代を歩んで行く訳だが、どの様な動向になるんだろうか。総括する気も無いので、ただ単に起こる事象を追っかけてみたい。
一つに作家達の制作環境に動きがありそうで、単なる共同アトリエからもう一歩の踏み出し方が次10年度で多様化して行くかもしれない。来年開催される京都オープンスタジオ2010では参加スタジオが7件、各スタジオが連携する事でオープンアトリエという方法が一層有効に機能する。
で、そのうちの一つ、近日アップ予定の宮永亮さんの取材撮影に、GURAを訪問した。元酒蔵のスタジオはおよそ200?と広く、天井も高い。各人十分な制作スペースとこれまた大きなこたつ部屋で酒盛りにも苦労しないそうだ。宮永さんは若いが冷静に自身の制作や状況を見つめ、且つ熱のある気概を感じた。こういった場の活用方法、作品強度を追求できる環境を模索する事、現実的に話す言葉一つ一つに勇気づけられた。


特集で紹介されたmuzzは質の高い展覧会を企画、展示し続けている、場作りの先駆者だ。詳しくは特集記事を観ていただきたいが、流行や売れる事を一切顧みない男前さ、かといって独自路線を突っ走るだけではないバランス感覚、アートとは何かという問いをいつも投げかけてくれる優れた場所だ。この試されている感が、最も真摯に対等に鑑賞者を意識している事であると僕は思うし、そのように感じさせてくれる場所はそうはない。変な言い方だが、これからもお気楽に牽引していただきたい。どうも格好良く撮りすぎたらしくクレームがついたそうだ。(被写体がかっこいいから、あと先鋭的なポージングに邪魔されたおかげで納品できないデータばかりで勘弁してください)

 
その他、田中真吾君たちのstudio90、来年完成する筈の名和晃平さん主導のSANDWICHなど注目していきたい。
SANDWICHは単なるスタジオに留まらない展開と関わる人の多さと、物理的にでかいが事業規模もでかい。若い作家がこの規模の環境を動かしていく事は10年前には想像も出来なかったんじゃないだろうか。小出し小出しに出来ていくので記録もその都度だが、その分変化が見え面白い。いつかまとめて公開したいが、ひとまずArt itのブログでちらっと観る事が出来る。


さて、つぎの10年間はどうなるだろうか。
ひとまず来年、自分のアトリエをかっこよく片付けたいと思う。
長々とすみません。では。


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