アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

来年春に京都で開催される映像芸術祭『MOVING 2012』で、&ARTに掲載されているドキュメンタリー作家/演出家
村川拓也さんとの共同制作による、宮城県南三陸町を舞台としたドキュメンタリー映画を発表します。
タイトルは「対話/空洞(仮題)」。


"対話"という言葉は「震災に対して異なる考えを持つ2人が、被災地での共通の体感を
通して得た異なる2つの実感を、共生/対立させながら1つの作品を作り出していく」ということ、
そして「被災地の方々と対話しながら、そこで学びとることによって作品のテーマを
立ち上げていく」ということ、この2つの制作過程におけるアプローチを意識して名付けました。
"空洞"という言葉は、取材後に村川さんの口から出た言葉を僕が別の解釈に置き換えて引用したものです。


このプロジェクトの第一弾として、2011年11月、南三陸町を訪れて撮影した映像素材を基に3つの短編映像作品を制作し、
YOUTUBEで公開しています。それぞれの視点で編集した作品を「Dialogu­­e 1」(編集:村川拓也)、
「Dialogue 2」、「Dialogue 3」(編集:中本真生)と名付けました。


※動画はHDでアップしています。全画面再生にし、なるべく解像度を1080pに設定してご覧下さい。
※村川さん編集の"Dialogu­­e 1"は、ブログリレーの村川さんの最新記事にリンクが掲載されています。


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Dialogue 3
本作は、南三陸町歌津地区にあるローカルコミュニティー伊里前契約会の会長千葉正海さんによる、伊里前地区の案内シーンと、
千葉さん宅でのインタビューシーンを中心に構成しています。
伊里前地区は今回の震災で地区そのものがほとんど壊滅してしまい、千葉さんも自宅と仕事場である牡蠣養殖の作業場を失いました。


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Dialogue 2
本作は主に2つのシーンから成り立っています。
1つ目は初日夜間に車で南三陸入りしてすぐ、被災した志津川病院やその正面にある巨大な瓦礫の山と、
暗闇の中で対面した時の記録。
もう一つは南三陸で出会った長期ボランティア・スタッフのキムさんと、
ドライバーとして今回の撮影に同行した僕の友人、篠原光昭による会話です。


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僕はこの2つの動画を制作する際に、2つのことを意識して編集しました。
1つは「被災という状況下に置かれた人々の、生活/感情/言葉などを、丁寧に記録していくこと」。
"Dialogue 3"では被災者(いわゆる土の人)に焦点を当て、"Dialogue 2"ではボランティア・スタッフと
自分たち自身(いわゆる風の人)に焦点を当てています。


2つ目は「理由/悪意のない"自然現象"というものにより、大切な人の命を奪われた人や、
生活の変化を余儀なくされた人の震災に対する思いという、ある種"空洞(これが僕自身の空洞の解釈です。)"のような
撮影対象を追うことで、日本人の生活の本質に迫る」という仮定を検証していくことです。


今後京都で村川さんとさらに"対話"し、来年もう一度被災地に訪れ5月に合わせて作品を仕上げていきます。
村川さん、僕ともに是非感想が聞けたらと思っています。
またこれらの小作品を上映させていただける機会などあればぜひご連絡ください。

今週末東京に行く予定です。
宮永亮さん、八木良太さん、彦坂敏昭さんの個展や、
やなぎみわさんの演劇を見てこようかなと思っております。
東京には運良く、知り合いの展示が固まった時に行きます。
最近は2、3カ月に一回ペースですね。
宮永さん、八木さんは&ARTにも掲載されている京都の作家で、
彦坂さんは以前美術館のパーティーでお会いした、僕と同い年の作家さんです。
同い年というのは刺激になりますね。


先日東京に行った時は横浜トリエンナーレと、東京都現代美術館で開催されていた、
MOTコレクション、名和晃平さんの個展「シンセンス」を見てきました。
横浜トリエンナーレは金理有さんと八木さんが目当てでした。
その前は少し期間空きますが東京都現代美術館「MOTアニュアル2011」と
MORI YU GALLERYでの小沢さかえさんの個展などを見に行きました。
MOTアニュアル2011は富山出身京都在住の作家 木藤純子さん、
そして八木さんの展示が目当てでした。


ここまで書いて異様に八木さんの展示が入っていることに気付きました。
別に狙ってるわけじゃないのですが、よくよく考えて見ると、
今年東京で八木さんの展示がみられる期間は異常に長かったんですね。
実に合計半年程度。関西の展示にも出しているし、すごいハイペースです。
僕も見習わないと。


さて、自作の制作に向けて動き始めております。
半年間情報収集と、自分の向かう方向を定めていたような時期が続きましたが、
いよいよ本格始動です。


まだまだお知らせできる段階ではないので具体的には言えないですが、
今までの作品スタイルではどうしてもできなかったことに、
今までやってきたことを全部リセットして挑戦しようと考えています。
またこのブログでも報告していきます。

「国家とは、或る特定の地域の内部で正当な物理的暴力性の独占を要求する
人間共同体である」(引用文献:マックス・ウェーバー著『職業としての政治』 出版:岩波文庫)


「公共的決定は、個人がもつ私的決定の自由を制限することをその本質とする」
(引用文献:宇佐美誠著『公共的決定としての法―法実践の解釈の試み―』 出版:木鐸社)


"何をしてもおもしろければ認められる"
ということを魅力的に思って作品の制作をし始めたときは、
自由が個人と社会との交渉を得て獲得されることを
まだ理解できていなかったのだと思う。


昔はニュースも見なかった。今年2月のブログにも書いたけれど、
まるでドラマを見るように、他人の人生を自身の娯楽として
許容できるモラルの低さが許容できなかったからだ。


今は国家、地域、ひいては会社、家族といったなんらかの
共同体についての報道から、その仕組みの問題点を探している。
それは自分の生活にを守ったり、
自分が共同体を形成するとき、もしくは共同体に関わるときに参考にし、
同じ過ちをしないことが大切だと思っているからだ。
歴史から道徳心を学ぶことは素晴らしいけれど、次のステップとして、
道徳をどのように守るか歴史から学んで実践しなければいけないのではないでだろうか。


社会的弱者を作り出すような構造を容認すべきではない。
でも僕たちは"どのような構造が実際に社会的弱者を生むのか"を知らずに、
同じ過ちを何度も何度も繰り返している。
共同体の形成に関わる人は、学び続けるべきだと思う。


思想地図β vol.2の対談の中で東さんが今回の震災のことについて、
「いまはむしろ、震災後政治家に求められるのは、実務だけでなく、
こういう能力、「想定外」の危機を扱うため日常よりも長いスケールで
文学や思想の古典を呼び出す能力なのではないかと感じたのです。
つまり先人の知恵を借りる能力です。」と語っている。
(引用文献:『公共的決定としての法―法実践の解釈の試み―』 編集長:東浩紀 出版:合同会社コンテクチュアズ)


この言葉自体がある種文学的な言葉だから、鵜呑みにはしない。
でも社会において、文学や思想、そして芸術に何ができるか僕も諦めずに考えてる。

言葉にできるにしろできないにしろ、「最も関心のあることしか作品にはならない」
ということもあって、ちょっと制作の手が止まっている状態です。
震災/原発のことを制作のテーマとして吸収しようとするような積極的姿勢を持つことができず、
「今作品を制作することが自分のすべきこと」と割り切ることも僕にはできないようです。


世の中のサイクルの中で、僕の作品は生産性や実用性がない。
作品は報道には成り得ないし、時代を映す鏡としてもっと社会性を持った方法を僕は知っている。
そして、少なくとも僕の作品は「人を幸せにする」ためのものではない。
そもそも何かの目的を持って、そのための技術として造形的な技術を用いるというのは、
どういったカテゴリーで扱われようとも僕にとってはデザインだ。


本来ならばそういったことをすべて背負い込んだうえで、
どんな状況においても制作を優先させる方が、純粋な作り手だと思います。
ある観点から言えば、アーティストは常に社会人として非常識でいるべきかもしれません。
僕自身誰か別の作家が不謹慎な態度をとったからといって、幻滅することはない。


でも僕自身は疑問を持ったままは制作できない。
少なくとも無知がどれだけ罪なことかを僕は認識してるし、
無知な人間の制作したものを他人に見せることの空虚さに僕は耐えられないと思う。
僕はいかなるときもモラルを持って、社会人として自立した上で作品を制作することを選びたい。

今日は1日ドローイングをしていました。1日制作に集中できるのは本当にありがたいことです。
6月に過去に展示したことのあるドローイング8点と、新しく描き下ろしたもの2点、
計10点をグループ展に出品する予定なので、そのために描いています。
リサーチも含めると一枚描くのにそこそこ時間かかるのですが、
会期もうすぐなのでちょっとハイペースです。


過去2回の個展は、廃棄物の作品と合わせて展示していたのですが、
今回はグループ展で、あまり大きな作品も出品することが出来なさそうだったので、
ドローイングだけ出品することにしました。


ドローイングも手をかけて仕上げていますし、
前回の展示では廃棄物の作品のインパクトで、ドローイングまで意識が向かない人が多く、
なかなかじっくり見てもらえる雰囲気ではなかったので、
ドローイングだけ見せる機会があってもいいかなと。


グループ展に出品できるタイプの作品シリーズは初ですし、
他の人の作品と同じ空間に並べて自分自身我慢できるのかも気になるところです。
学生のときは小さな展覧会であっても、隣の人の作品と自分の作品の間隔から、
キャプションのフォントまで気になって、数回出品した後出品も企画もしなくなりました。
あの頃よりも大人になっているでしょうか。


ドローイングは、基本的には野外スケッチに行って現場で大体仕上げます。
でも今回は季節が梅雨なので、念のため現場を写真で撮影して、
雨で現地に描きに行けなくても仕上げることが出来るように準備しようとしたところ、
撮影の日があいにくの雨。


しかたなく、ホームセンターで傘と紐とカッターを買って、
木に傘を括り付け、2時間くらい撮影&ドローイングしていました。
ただ、傘の紐を通した穴から雫は垂れるは、
風が強くなるわでノートがビチョビチョになり、結局描き直しに...。
今週末には額が仕上がるので、めげずに頑張って間に合わせます。


下記は京都市内2箇所で撮影したドローイング参考用風景写真です。


IMG_1757.JPG


IMG_1681.JPG

結局3月書けずでした。皆さんすみません。


本当はアーティストのベネフィットや、チャリティー活動のことについて書こうと思っていました。
自分の身近な人のこと、遠い人のこと。
でも震災以来色々な人とそのことについて話す機会があって、
ブログ途中まで書いて保存した次の日に、その内容を全部誰かに喋って、
また書いては喋ってを繰り返していたら、全然文章が追い付かなくなってしまったので、
文章が追い付いたらいつか書きます。


今日は自分の制作のことについて。


最近は、今年の個展費用返済で必死になっていて、
まだ新作用の試作するだけの金銭的余裕がないうえに、
制作になかなか時間がとれず、ややフラストレーションが溜まっているので、
余計に作品のことを考えてしまっています。
(展示について一件返信できていない件があって、さすがにもう不参加になってるかな。
関係者の方すみません。全然準備できていません。)


僕はこれまで、専門的な技術が必要ない作品を制作してきました。
大学の時も授業にほとんど出てなかったですし、基本的に人の話を聞かないので、
自分では誰にも教わらずに今までものを作ってきたと思っています。
自分を作家と呼ぶには畏れ多いほど手先が不器用で、
小学生の時にティッシュ箱などの紙箱をガムテープでくっつけて
合体ロボットを作っていた時とあまり変わってないような気がします。


子どもの頃ピアノ/エレクトーンなど習い事をやっていたのですが、
どれも長く続かず、兄と姉は高校三年生までピアノを続けていましたが、
僕は練習が嫌で小学3年生で辞めました。
(自分では覚えていないですが、とても下手だったらしいです。)


それが別にコンプレックスなわけではないのですが、
想像力があって、専門的な教育がされた確かな技術に基づき、クオリティー高い作品を
制作し続けている人を見ると、つくづく「成績つけるとしたら、この人優等生で、俺劣等生だなぁ」と思います。


もちろんそんなことは鑑賞者には関係ないので、
僕の作品もそういう人たちと同じ物差しで測られるんだけど、
「想像力」「クオリティー」「斬新なアイデア」と関係ない、もっと"違ったところ"から
発想して制作していることが伝わった方が、僕としては本意ですし単純に説明が楽です。
(「それ一般的に求められるアートなの?」という問題もありますが...)
「甘く見て」とかそういうことが言いたいわけじゃなくて、
作品を(これは僕の物差しで)正しく読み解く際のヒントになるんじゃないかとかそういう理由です。


その"違ったところ"がどこなのかは、まだうまく口で説明できないのですが、
今読んでいる「聴き飽きない人々―〈ロックとフォークのない20世紀〉対談集完全版」
(菊地成孔、2007、学習研究社)という本にそのヒントになりそうな文章があったので引用したいと思います。
この文章自体は音楽と音楽史を題材にした対談(※)なので、必ずしも他の分野のこととは一致しません。
また解説も入れないのでわかりにくい&読みにくいですがあしからず。


(※) 僕は自分でものを作る始めるずっと前に、INUやスターリンなど
日本のパンクバンドに衝撃を受けたという経験がありまして。
さらに今から引用に出て来る「代々木オフサイトで演奏をしていたアーティスト達」のスタンスに
(思想や音楽自体というよりはあくまでスタンスに)大学時代に勝手に共感を感じて
色々文章を読んでいたので、音楽関係の引用が多いのです。


著書内の「Round4 クラシック/現代音楽」の項目にて、
菊地成孔さんと、対談相手の高見一樹さんが下記のような発言をしています。
(会話中の発言をバラバラに抜き出しています)


菊地「現状のシーンで、僕にとって一番苦手なのは、代々木オフサイトに行くような、
ジョンケージから始まった哲学をカジュアルにもってて、
楽器の修得をしたことがないっていう人。楽器を修得するという地獄を見たことがなくて、
ある種の心地よい空虚感の中で、東京にはすでに<音響>のシーンがあって。
っていう人たちとの距離感がものすごいんですよ。(133P 下段3行目より)」


高見「電子音楽とかのある種ケージファンって、そこに留まろうとする人たちが多いですよね。技法的に発展したり、切磋琢磨することをやらなくていいんだっていう心の解放感がいいんですかね。(134P 下段17行目より)」


菊地「代々木オフサイトのカジュアル・ケージイズムの若い人たちが、良い意味でも悪い意味でも不気味な新種に見えるのは、解放された感じ、が極めて薄いか、あるいはない、ぐらいに見えるからなのよね。(135P 下段14行目より)」


菊地「うんざり経験なし、トラウマなし、汗流さない。自意識だけが葛藤。それがお洒落という...(136P 下段19行目より)」


代々木オフサイトの若い人の傾向が本当に「カジュアル・ケージイズム」を持っていたは別として、
ジョン・ケージの悪影響についての解説としておもしろいなと思いました。
「技法的に発展したり、切磋琢磨することをやらなくていいんだっていう心の解放感」は
僕自身感じたことないな。
「心地よい空虚感」と「自意識の葛藤」の先に"発展"はあるのかということについて、
他人事に思えず色々考えているわけです。


"発展"とは、アートの歴史の発展とか、そういうことではなくて自分自身人間として変化していけるのか、
誰かが変化する状況をつくり出すことができるかということです。
その先に閉塞感が延々続いていくような享楽的な作品が着地点ではいけないなと。
納得のいく道筋を見つけてからじゃないと、今までの自分と同じことをしていたら
前に進めないので、自分なりに思考錯誤してみます。

3/6まで愛知で開催した個展、京都からも様々な方にお越しいただきました。
本当にありがとうございました。無事搬入を終えました。


いちかわさんのように僕も本当は別の記事を書いていたのですが、
ちょっと他のことを掲載する気がしないので消しました。


あまり具体的なワードを出すと、
必要な情報よりも、このブログが上に上がる可能性もなくはないので、
控えますがとにかく、千葉に住んでいる父と兄は無事でよかったです。


兄の職場は東京ですが、昨日の3時ごろは一時避難したらしいです。
職場の書類がめちゃくちゃになったとのこと。
被害統計をまとめる仕事をしているので、今かなり大変なはずです。
でも本当に必要な人がつながらなくなるので、電話は控えています。


今朝も新たに東北で被害が出たとのことなので、
TVで常に関東に新たに被害が出ていないかチェックしています。
被害が大きくならないことを祈るばかりです。


それから、本日向日市民体育館にて、13時~18時1階専用受付カウンターにて
支援物資を募集しまとめて送るそうです。募金箱も設置するそう。
bjリーグ 京都ハンナリーズの主催みたいです。
自分の生活もあるからなかなか難しいかもしれないけど、
今後もこういう動きは京都内でもたくさん出てくると思う。
偽善でもなんでもいいので、京都からでもできることをしましょう。


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