アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

先日、数日間東京に行ってきました。昨年展示をさせて頂いたgallery αMでの、2011年度のプログラム「成層圏」の全プログラムが終了し、そのまとめとして同プログラムの三人のキュレーターの方々、そして中井康之さんが参加されたシンポジウムがあったため、それにお邪魔してきました。
これを終えて、僕としてもようやく1つの年度を越えたと言う気持ちです。


そしてもうすぐ来る来年度、4月末より京都で行われる「MOVING2012」が新年度の僕の最初の仕事になります。
僕は4/22、メトロで行なわれるMOVING Liveで、PsysExさんとの再共演を果たせる事になりました。あと非常勤職も再開です。


本年度はとにかくいろいろな予定をこなし、その中から自分に何が出来るのか、何が出来ないのか、、もっと言うと自分(の作家業)にとって最適な動き方はどういうものなのか、とにかく実際に動き、ぶつかりながら学んで行った年度でした。多分これからも毎年そのように死ぬまで生きてくのでしょうけども。


自分の問題だけではなく、色々な事がめまぐるしく動き、変わりましたね。
将来この年度を振り返って見ることがあったら、きっと大きなターニングポイントになっているのだと思います。そんなことをGURA内の自前の部屋の中で、未処理書類の山を周辺視野に入れながら(出来るなら見たくない)、しみじみ思って書いております。視野は広い方がいいですが。


京都も東京も含め最近同年代の作家さんに合う機会が多いのですが、最初から作家を目指している訳じゃなかった、と言う方が結構多いです。僕自身も同じなので興味深い。いつの間にか映像作品を世に出し、また映像というメディアの構造や情報の在り方と言う小さな窓から世界を見るようになりました。自分では気づかないうちに、多くの選択を積み重ねてきた結果として今の自分の場所がある事を感じます。


今後はもっと意識的な選択もしてゆこうと考えています。自分がどこに行きたいのかをしっかり見つめて。同時に選択をする事をもっと単純に楽しめるようになれたら良いと思います。選択を重ねると言う事は積極的に自分を、あるいは自分の持つ関係性を、繰り返し繰り返し再構成して行く事に繋がっていると思うし、良い事ばかりではないのですが、日々新たになって行く自分をどこまで肯定してやれるかの勝負やな、、と。


思い描いているものと現実とのズレは忌むべきものではなくて、おもしろい研究対象みたいなもんだと思っています。そのズレが自分と世界との関係をそのまま映し出す鏡なので。「ここに行こうと思ったけど、なんでか別のところに出た。なんでだ?」の「なんでだ?」を大事にするのが作家と言う人種だと個人的には思っています。なんでなのか、それが分かるとワクワクします。作品が「なんでか」の答えが作品の中に込められてると言う意味ではありません。作品は「ズレ」そのものの方です。


いまGURAにはNicholas Jones(www.njjones.co.uk)というペインターがレジデンスしてます。
やっぱり向こうの人は、とにかく議論をする、話す事で相互理解をしようとする、という情熱が凄いなあと思います。情熱というよりは文化に裏打ちされた行動様式の様なものかもとも思うのですが。それから制作と言う事に対してもっとカジュアルなのかな。なにか確固たるものを作り上げるということに傾注するというよりは、普段言葉をやりとりするのと同じノリで作品を介してもやりとりをすると言うか。
αMでご一緒したイギリス留学帰りの林加奈子さんともつい最近東京でいろいろお話をして、そういう立ち位置の違いがより顕著に感じられる自分になってきたのかもしれません。いや、そんなに沢山の海外の作家と交流した訳ではないし、交流場所も日本と言うホームなので、もちろん見えているものはまだまだ少ないと思いますが。違いと言うのは、面白いもんですね。


ちなみに、ちょっと告知入りますが、Nickと彼をうちに紹介して頂いた川崎優美さん、それから澤田拓人さんのミニグループショーがあります。古今燕と言う場所で3日間開催されます。題名からして凄く楽しみ(笑)皆様も是非お越しを。
Takoyaki & Chips eflyersmaller.jpg


さて、花粉症との戦いはいったいいつ終わるのでしょうか。その日を楽しみに明日からも頑張って生きてゆこうと思います。皆様もご自愛ください。ではでは。


宮永

こんばんわ、宮永です。


先週末に東京のいくつかの展覧会に行ってきました。僕も展示させて頂いたgallery αMでの林加奈子さんの個展、森美術館でのイ・ブル展とMAM projectのホー・ツーニェン展(どちらかというとこちらがメインのつもりで)、そして東京都写真美術館でやっていた恵比寿映像祭、G/P gallery、MEMなどです。


自身がMOVINGに関わっている事もありますし、最近映像作品、インスタレーションをしっかりインプットできていなかったので、重い腰をあげて強行日程で。せっかくなので美術館展示(映像の)の2つの感想を述べようかと思います。海外の表現と言う視点で見たので、外国の作家の作品についてが主になりますが。


・MAM プロジェクト016: ホー・ツーニェン
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/project016/index.html


メインの作品として展示されている「未知なる雲」と言う作品の4チャンネルバージョンには素直に圧倒されました。
もともとはシングルチャンネルのビデオ作品だったそうで、僕はそれを見れていないのですが、おそらくあるビルの各フロアーで同時進行的に起こっている出来事(個々が小さなストーリーとして存在している)を再構成することで、「ある一つの物語」と言う感覚に疑問符を突きつける、と言う類いの作品だったのかなと思いました。


建築それ自体と、撮影システムそのものを明示する終わり方と、冒頭と最後に出てくる、16:9画面のフレームを模したと思われるものを介してのループ構造の暗示(かな?)が、なんというか小憎らしかった。ただもうちょっと良く見ると、映像内で見せたそれら自体も、見せたいイメージを作る為に用意された虚構なのかもしれないと言うところが、ミソなのかな、、とちょっと思いました。


で、そのシングルチャンネルのものが4チャンネル(音声は10チャンネルも有るそうです)に再編集されたものが提示されていました。シングルチャンネル版での個々のシーン(カットの集合)がカットに分解され、同時に4方向の壁にプロジェクションされていた。この展示方法では、画面は3つまでは同時に見る事ができるけれども、もう1つはどうしても物理的に見る事ができない、と言う状態が生じます。また作品内の時間が圧縮されているとも言えます。これはシングルチャンネルの方の映像の構造を見てみないと、なんとも言えないですが。


とにかく、鑑賞者は映像の美しさや音響の良さに酔いしれようとしても、見えない1画面が気になってキョロキョロしてしまうか、あきらめて見れる範囲の画面に集中するか、、、と言った具合に作品に対する態度の決定を迫られるところがありました。「映像のフィジカル」とは恵比寿映像祭の方のテーマですが、ここでもそれを強く感じさせられる結果になりました。


・ 恵比寿映像祭
http://www.yebizo.com/
最終日に駆け込んだので残念ながら上映プログラムは見れずでしたが、とてもためになる展示ばかりでした。基本的にビデオ(フィルム)とカメラの関係性を考えさせられるものが多く、僕が片足を突っ込んでいるモーショングラフィックスはあまり無かったのは、少し残念ではありましたが、、それはまあ、僕の個人的な話なので。。


初っぱなのマライケ・ファン・ヴァルメルダム(Marijke van WARMERDAM)は、パネルの両面を使ったインスタレーションでした。インスタレーション構造自体はどうしてもビル・ヴィオラを想起させるのですが(言ってもしかたが無い事だと思いますが)、両面プロジェクションの扱い方は全然違うと思いました。2面性を神話的な意味に回収するのではなく、画角の違いや被写体に対する距離の違い、カメラワークの違いが示されるところが面白かった。


ユェン・グァンミン(YUAN Goang-ming)の<消えゆく風景・通過II>は、最初は1つの横長の画面を3つに分割しているのかなと思いましたが、どうもよく見ると3つの画角の違うカメラを一つのクレーンの先につけて移動撮影をしている様な印象でした。3つの画面の境界と言うか、隙間にメンタルな意味を見いだすと言う以上に、3つのカメラの眼の現実の捉え方の違いが示されているところが興味深かったです。眼の数、画角の数だけ現実が生まれるとも言えるし、逆に映像体験に現実は無いと言う事も考えられる。カメラ自体を主体として捉えるかどうかによって、フィジカルかそうでないかが逆転してしまう様な作品だと思いました。


もっと書きたいのですが、長くなりそうなのでさらりと。ヨハン・ルーフ(Johan LURF)の作品は本当に実験映像の正当と言う感じ。実験映像に正当も何もないかもしれませんが。上映画面の中にMacのウィンドウの1部(こういうの↓)が含まれていたのは、何かのミスだったのか、技術的な問題でそうなったのか、敢えてなのかが気になりました。敢えてだったら凄くキュンとするなと。マニアックな視点ですいません、、。

スクリーンショット(2012-02-28 17.32.34).jpg


サラ・モリス(Sarah MORRIS)は、ちょっと建築や時代背景への勉強不足、なにより英語の速読力の無さのせいで、なんともコメントが出来ないです。映像の中に建築の契約書が出てきたりしていたのですが、その文章を読み取りきれなかったので、勉強をしないと、、。映像の構成にコヤニスカッティと近いものを感じた、と言うくらいしか言えないのが残念です。精進。


全般的に海外の作品は、もちろん相当にクオリティーの高いものが日本まで運ばれてくるからと言う面もあるでしょうが、1つの作品を作るための体制がしっかりしていると感じました。全てでは無いでしょうが、作家がいて、カメラマンやオペレーターがいて、技術者のサポートのもとに作品が作られている印象が強いです。作品が社会的なものとして立ち上がるために必要な事の1つに、そう言う体制があるのかなと考えさせられました。


海外勢ばかりの感想になってしまいましたが、林さんがtwitterで大木裕之さんの展示や上映について、「切実だった」とおっしゃっておられたのも気になりました。順路的には一番最後、トリの部分で大木さんのインスタレーションが展示されていました。名刺やレシート等、とてもパーソナルな感覚を呼び覚ますものが、映像が内部に投影された「庵」と共に展示されていて、他の作品のプレゼンのされ方とは対照的。この作品を順路のトリに持ってきた展示側の意図を考えてしまいます。


映像ってなんでしょうね。

皆様、お久しぶりです。長い事こちらをお休みしてしまってすいませんでした。


10月、11月、1月(現在京都児玉で個展中です、お越し下さいませ)、と出展ラッシュをなんとか生きのびて戻りました。正直生きた心地がしなかった数ヶ月ではありました。と言っても死んだ心地がしていた訳でもありません。まとめると、幸せなことだったのだ、と思います。宮永です。


変な導入ですみません。つらつら書きます。


今の世界で何かが広がるスピード、価値の変容や置き換えの速度なんぞと言うものは、既に人間の日常的な想像力なんてものは超えてしまっていると思います。ルートの広がり方自体も予測不可能になりつつある。と言うか、今まで勝手に予測できたと思い込んでいただけなのかもしれません。要するに何にも分かってないんですね、多分。ただ右往左往している。どうやら世界中皆そうなんじゃないか、と言う事が暴かれつつある。


人間の思考とは便利なもので、ある範囲の物事を一まとまりとして捉えると言う方法に長けています。方法と言うか、持って生まれた脳の機能と言っても良いかと思います。右往左往を括弧に入れて、「右往左往」としてとらえられる。それに似たまとまりを「別の右往左往」と呼んで、その間の関係性を考える。括弧内の事は、まあ後で、と言う風にできる。これは非常に単純で、便利な方法です。故に永遠に繰り返せると言っても過言ではないです。永遠に繰り返せる筈と言うところに救いもあり、実際人間は繰り返してきたんだと思いますが、最近はそのことにむしろ薄ら寒さを感じるようになって来てしまいました。


それは個々の行為としては繰り返しではあるんですが、結果として形成してしまうのは人間の想像力でも知覚しやすい規模の安定的な構造(サイクル)では無く、視界に映るのは無数に枝分かれして行く小道の集合体にしか見えない。エンジンの回転によるエネルギーが線運動に使われるのに似てるのかもしれません。


世界が心の機能の一部だけを肥大化させた現実に置き替わってしまっているのではと言う事は良く言われていると思います。人間は脳内に生きている、みたいな。ただそしてそう言うシステムを端的に社会と言ったりする訳で、またそのシステムによって初めて人間は自身の輪郭を知覚することができるのも事実なので、一概に悪とは言えません。


ある程度コンパクトな社会であれば、人間と言うものは社会そのものと自分自身を重ね合わせ、社会のミニチュアとして自分自身を認識し同化すると言う事も可能だと思います。単にシステムのパーツとしてではなく、システムの在り方、つまりその境界の描かれ方や動き方の特徴と言ったものに自分を合流させ、社会をミニマムに体現すると言う形での自己実現の形が成立する。


しかしそのシステムの在り方を個々の人間が捉える事自体が困難になると話は変わってくるのだと思います。内部から周りを見回しても、その形を認識する事ができないぐらいにいつの間にか境界線が膨張して視野から消えてしまっている。一因としては、人間社会のベースにあると思われる「括弧付け機能」とデジタル的な情報処理方法の親和性が有りすぎ、スピードが上がりすぎた、と言う事かもしれません。


そのような中では、一旦「括弧付け機能」の汎用性や便利さを見直す必要があると思います。と言うか、括弧の中の事についてもっと微視的に考えても良いのかも。


うーん、なんかうまい事纏まりませんでしたが、、今ちょっとそう言う事を考えていますというお話でした。引き続き考えます。

宮永亮

宮永です。
こちらのブログの方を何度も飛ばしてしまっています、申し訳有りません。
今回もめっちゃ遅刻したけど、頑張って教室に飛び込んでみた感じです。

先日東京のgallery αMでの展示作業と、オープニングのトークイベントを終え帰京(都)しました。
http://www.musabi.ac.jp/gallery/


今回の展示は、僕が昨年の夏に撮ってきた東北の映像と、その後近畿で撮った映像、震災後の6月にスウェーデンに行ったときの映像、それから震災後の東北を見に(撮りに、と言う意識ではとても行けませんでした)行った時の映像素材を元に構成された映像作品を中心に据えたインスタレーションとなっています。


「映像作品を中心にしたインスタレーション」と言うところに、ちょっとナニがあります。映像を現在の編集環境で作っていて思うところがあります。それは全てがデータとして扱われる、ものを通過することは、最初にカメラを動かす事、展示として出すときにスクリーンに映し出す事、の二点しか、実感としてとらえる事が出来ないと言う事、データ上であれば完成作品であれその素材であれ、はたまた中間素材であれ、一律に横並びのデータであり、映像編集のプロジェクトファイル(AEであれば.aepですが、イラレの.aiのほうが一般にはイメージしやすいかも)もそれらをそのように、横並びのデータベースとして把握し、読み込み、擬似的に重ねています。擬似的にと言うのは、その行程が可逆で、重ねたりやっぱり剥がしたり、と言う事が現実の物質を使うよりも異常に簡単である、と言う意味です。


一旦重ねた絵の具を奇麗にそれだけ剥がす事も、彫ったときに出た木屑から彫る前の状態に戻す事も至難の業であり、その事が逆に作品の強度を増す事実としてある訳ですが、映像はプロジェクトファイルに戻る事でそれが可能です。


現在において映像の特性とは、複製可能性に有ると言う見方も出来ますが、それ以上にマスターを再制作できる、と言う事が今までの「作品」と言う概念から見れば非常に大きな違いかと思います。はっきり言ってその事が作品の強度を下げる事も事実な訳であり、映像作家が頭を悩ませている事でもあります。ただ僕は、その事を面白いとも感じています。


今回のαMの展示では、勿論完成された作品の中に鑑賞者の方が何らかのメッセージを読み取って頂く事も目的であると同時に、日本や海外と良う地理的広がりや、編集時間の長さとは裏腹な、完成品と素材群の間の可逆性からくる映像メディアそのものの刹那さや曖昧さを示したいと言う事も目的の一つでした。そう言ったものこそが映像が芸術として成立する為の足がかりかな、と今思っているからです。
twitterやFB等ではちょくちょくお見せしている擬似的な部屋の構造を実際にギャラリー内に現出させ、その可逆性を象徴的に提示したつもりです。部屋自体が、組み立て、バラシが可能な個々の部材から作られています。また部材の一部をスクリーンとして利用しています。映像の構造もそうです。では実際のものとしての部屋の素材と、投影される映像の素材の本質的な差異は何だろうか?と言う問いをこのインスタレーションで投げかける事も出来るかと思います。


部屋の構造自体は、運びさえすればどこでも組めると言う意味で、何というかアン・サイトスペシフィック(正しい用法かわかりませんが)なのですが、展示としての配置は別の空間に持って行った際にはサイトスペシフィックな、つまり現場に合わせたものになるでしょう。完成品とデータベースと言う映像制作の構造がある限りは、(やりませんが)映像コンテンツを別の作品にまつわるものと交換も可能な訳です。


一見無限に見える選択肢や道筋のバリエーションから、何を選ぶのか、何が自動的に選択されるのか、そう言う問いは誰にでも投げかけられる事で、僕は映像と言うものを通してそう言う現代の事を考えている、と言う事になります。


どうでも良いんですが、切なさと刹那さって似てますね。これは恋なんでしょうか。何なんでしょうか。明け方に何言ってるんでしょうか、僕は。


※告知2点すいません。


αMとは別の新作を出展致します。祇園祭の映像素材を使った映像ドローイングのようなものです。
「ルネサンス ─京都・映像・メディアアート」展
http://plaza.bunka.go.jp/kyoto/rel_01.html


それから
TOKYO DESIGNERS WEEK 2011では旧作を児玉画廊より出品です。
http://www.tdwa.com/
画廊よりのステートメントを先に呼んでもらった方が分かりやすいかもしれません。下記です。
http://miyanagaakira.tumblr.com/post/12070825359/tokyo-designers-week-2011

一日遅れな事に気付いて慌てて更新です。毎度ですが。

今日は伏見の方は凄い雨と雷でしたね。京都全体でそうだったようですが。おそらく350m以内で落ちたんじゃないかと思います。でも夏の大雨と雷は風情があって好きです。

光と音の間隔(秒数)をざっくり数えて、自分を中心点として雷がだんだんと移動して行く様を想像するのは楽しいですね。
あと、同様の現象が人間には移動不可能な広範囲に渡って同時多発的に起こる感じ。100m先で起こったと思ったら数十秒後に何キロも先で鳴り、また300mくらいで起こる。その様子に耳を澄ませて雨雲の規模とか早さを想像する。これも楽しい遊びです。

同時に、雷を、かみなり、かんなり、かんだち、いなずま、いかづち、ごろつき、らいさま(wikipedia出典)といろんな名前で呼んだ時代の事とかに思いを馳せてみたり。科学も神話も思考体系の在り方のバリエーションとして等価に考えるのが好きです。

さて、報告と言いますか、スウェーデンでのVJアクトの動画を編集しましたのでご紹介。

MIYANAGA Akira VJ act, Visualization for Mokira
VOLT2011, 11 June 2011, at Uppsala Konsert & Kongress AB, Uppsala, Sweden



映像にかぶって来るうざったい影は本人です。すいません。しかたがなかったんです。
VJと作品の世界観をにじり寄らせて行く、と言う僕の狙いがある程度実現できたかなと思います。まだまだ精進ですが。

それからこれにも旧作が出張しているようです。展示の様子等はまだ見ていないのですが、有り難い事です。宮津大輔さんにはWondjinaのedition1を購入して頂いております。


他にもアートタイペイにもちょこっと持って行かれるのと、「地の灯について about the lights of land」のメインイメージをフランスで上映して頂けるとの事で、先日メディアを送付したところ、これはまた詳細告知致します。もう言っていいのかまだオフレコなのか確認できていないです、すみません。

そんなこんなでやっております。
大きな、悲しい訃報もありましたがやる事やらにゃと思います。いろんな意味で社会や身の回りの動きを感じる今日この頃であります。

8月中にHPつくるのとアー写撮ってもらうのが目標です。


宮永

宮永です。


先月すっかり、ブログをすっ飛ばしていました。
スケジュールがキツかったと言うよりは新しい試み、初めてやる事が多すぎでパンクしかけていたと言うのが正直なところです。
申し訳ありません。


5月末に行われたMOVING~映像作品上映会~(来て頂いた方もいらっしゃるかと思います、1ヶ月遅れですが、本当に有り難うございました)の後、ちょっとスウェーデンの方に行って来たためです。こちらはVJとして。


順番に振り返ってみたいと思います。


今年のMOVINGは、来年の映像展のプレイベント的な扱いとして行われました。コンセプト文にもあるように、映像と言うメディアの可変性、と言うかメディア横断性みたいなものがテーマなんだと思います。実験映像や、芸術としての映像と言うものが社会とどう関われるのか、実行委員の林さん、水野さん、僕、&ART(のN氏)とフィールドさんが兎に角手探りながら作り上げたイベントではなかったかと思います。


京都シネマとモントレ京都にいらっしゃった方にどう捉えられたのか、スウェーデン行や、後で述べる東北行を挟んでいてまだ僕はご来場頂いた方のアンケート等を拝見してはいませんが、運営に携わった方々の頭数から考えると大きな規模の、チャレンジングなイベントだったと思っています。


無論、色々課題は残りました。ですがそれもやってみて初めて具体的な意味で見えて来た課題だと思っています。これから総括して行かなければ行けないですが、上映会とアートフェアに来て下さった皆様、参加して下さった作家の方、トークに来て頂いた作家の方々ゲストの方々、この場を借りて再度御礼申し上げます。有り難うございました。


個人的な感想としては、大学時代の学内展セク長経験が役立ったな。。。あと、トークの司会は怖いっす。


MOVINGは5/20-5/22でしたが、それから一週間と少しの6/4にはスウェーデンに向かいました。
Volt(http://www.voltfestivalen.se/)と言うフェスに参加する事が第一の目的でした。ただもちろんカメラを背負って、撮影旅行も兼ねてです。


僕のアトリエ時代の友人が現在スウェーデンで作家活動中、その彼氏がSwedish VJ Union(http://www.vjunion.se/)に所属しているVJ(http://www.vjunion.se/vjs-crews/vjs/martin-soderblom/)で、彼が京都に旅行に来た時になんというか意気投合して僕も出る事になりました。


滞在先は彼らの家、10日間ほどいたのですが本当に至れり尽くせりでした。
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Photo by Martin Söderblom


皆でストックホル近くのアーキペラゴ(群島)の1つ、Birkaと言うバイキングが街を拓いた島にいったりしました。
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Photo by Martin Söderblom


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Photo by Martin Söderblom


またMartinと二人でカメラをもって、これもバイキングに縁が深く、歴史のあるSigtunaと言う街へ。汽水域なので、鼻にくる程の潮の匂いは無く、またスウェーデンの気候は基本的にドライなため、本当に爽やかでした。彼は写真、僕はビデオを撮りながら、ぼつぼつと語り合いながら、と言う穏やかな撮影を僕は日本ではしたことがありません。

あちらは夏は日没がものすごく遅く、写真は夜7時8時くらいですが、夕方の様な美しい光の時間帯が長く続きます。
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Photo by Martin Söderblom


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Photo by Martin Söderblom


北欧ではご存知のように、夏とは対照的な長く暗い冬があります。僕はあちらの冬は経験した事は無いですが。それ故に夏の時間は彼らに取っては眩く輝く時間なのかもしれないと思いました。暑くなってもからっとしていて、奇麗な光の夏を楽しもうと言う精神性があるのだと思います。日本のうだる暑さは、これはこれなりに多くの精神性を生み出すとも思います。前にブログに書いたかもしれませんが、酷暑の中全てが白日の元さらされ風景のリアリティが変わってしまうような、あるいは時間が停まってしまいそうな日本の夏の昼下がり、は、(しんどいけど)僕の好きな感覚の1つです。だからどちらが良いとは言えませんが、ストックホルム近郊のあまりに北海道に酷似した風景と気候は僕にとって凄く親しみやすく、それゆえ精神性も好ましく思えました。


気候だけでなく、スウェーデンの国の在り方と日本と言う国の在り方も大きく違っていて考えるところ、多々ありました。あちらの人口は449,964平方km、人口は900万人チョイで人口密度20人/平方km、日本は377,914平方kmで人口は1億3000万、密度339人/平方km(中国より多い!)と言う事で、もはや国と言うものに対する根本的な認識が違って来るレベルの差だなと思いました。


いわゆる福祉国家も、首都近辺の便利な交通網(バスも鉄道も基本的に会社が一緒でICカードが普及してて乗り降りも乗り換えもスムーズ)、カード社会の利便性も、面積と人口の比率故に可能なのだろうな、とか。定時に仕事から帰れる社会とか。


友人が言っていた面白い話で、ストックホルムシンドロームと言うのがあると言う話。ストックホルムの男性はそろそろ身を固めないとと思って焦りだすのが40代だそうです。日本だと30代ですよね。関係ないけどスウェーデン男はシャイで女性からの告白がほとんどだそうな。。


アートに関しては、やっぱり国からの奨学金やらが充実している、というかアートに限らず年を取ってから大学に入り直すとか、そういった知に関する選択肢も豊富だそうです。
アートとマーケットを繋ぐと言う事は重要な事だなと思うんですが、国家単位でそれが必要で重要なものだと言う打ち出し方はやっぱり日本からみると羨ましく思う、と言うのが本音です。競争原理はある目的にそった淘汰の原理で、多様性の保存に向いているのかどうかは難しいところ。強いものが残るのだから良いものも沢山出て来るでしょうが、アートを1つの山として捉えた時に切り立った塔の様に酷薄なものにならないかと言う懸念はあります。なだらかで大きな山も美しい筈。僕は今そう思っています。


Volt2011も、述べた様な北欧の精神性がすごく現れた良いイベントだったと思います。つたない英語で多々苦労しましたが、それは僕の力不足。

観客の層が老いも若きもと言う感じで、また日がなかなか沈まないからデイイベントの様な印象もあり、リラックスしたムードのお祭りでした。もちろんAlva Notoとかバキバキの感じもありつつで、幅の広いイベントだったと思います。

僕自身のVJにおいても、VJ用のやり方と作品の在り方の乖離が長い事悩みの種だったのですが、それが今回ある程度解消された気がして、得るところが大きかった。日本では中々みられないヴィジュアルも大事にしたフェスだったし、同じくVJをしていたKubKub(http://www.kubkub.org/)に"Great work!"て言われたのと、ハリーポッターの若い頃みたいな若者に"Good work! Thanks a lot!"て言われたのは一生ものの思い出になりそうです。


さて、、MOVING、Voltともに僕のなかで重要な経験だったのは疑いないのですが、やはりずっと気になっていたのは東日本大震災の被災地の事でした。原発の事が心配なのは言わずもがなですが、一度撮影して回った東北が僕の現在の主な関心事です。


なので6/14の帰国後、すぐ準備に取りかかってとりあえず言ってきました。
以前の東北行は花巻に行った後、諸事情で仙台に下り、塩竈、石巻、女川、雄勝、北上川河口(追波湾付近)、気仙沼、、、と周り宮古から盛岡に域、青森方面へと言う行程でした。

今回とりあえず高速で石巻まで行き、そこから以前とは別ルートで北上川河口に向かいました。そこから以前と同じルートで気仙沼の方に抜けようかと思っていたのですが、以前通った北上川を渡る橋が通じでおらず、またその付近もかなり被災していたので、一旦撮影を開始しました。


状況など詳細は割愛しますが、山形の方から来て復興作業をしていた土木業者の人曰く、その橋のすぐ近くにあった大川小では80名程生徒が津波に流されたとの事。


また同じ人から、女川の悲惨な状況を聞かされ向かう事にしました。
今回の災害に関し僕が現在何か偉そうに言える立場に無いと思うので、とりあえず動画からのキャプチャ画像を添付します。


これは女川に向かう途中の雄勝の映像です。
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女川です。
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現実を前に無力感に打ちひしがれると言うより、現実を捉えきれずに無感動になる、と言う感覚でした。自分の中でこれらを総括するには時間がかかると思いますし、また自分が映像を撮って来たと言う事の意味も、まだ考えきれていません。ですが考えなければ行けない事だと思っています。日常とアートと、映像と、人間について。


穏やかな北欧を見て回った後、東北の現実に触れたと言う事が、僕にとって無駄な事ではないと言う事しか今は言えないです。


ではでは、長くなりましたが(まとまってもいませんが)今回はこの辺で。

また締め切りをちょい過ぎましたが、書きます。


花粉症のお供にコルゲン(ジェルカプセル、即効性命!)を握りしめながら日々暮らしています。宮永です、もとい、ミヤンガです。目覚めと同時に鼻をかんでいます。ミヤンガです(詳細は&ARTにお問い合わせ下さい)


健やかな春、と言う訳にはいきませんし、ここ数週間は京都の2つの大学での非常勤の職に慣れるのに必死と言ったところ。


あと、既に書いたか記憶が定かではないのですが、この4月から「平成23年度京都市芸術文化特別奨励者」と言う身に余る肩書きを頂いて恐縮中と言ったところです。


木金と仕事なので、よし、土曜から出かけて水曜ぐらいに帰ってくるプチ撮影旅行を沢山しよう、とか言う甘い見通しを立てていたのですが(大甘)、中々そんな夢の様な制作スケジュールを構築できそうになく、曲がりなりにも教員としての責任や、肩書きの大きさに焦りも覚えたりします。


が、是が非でもこの大甘スケージュールをライフサイクルの主眼に据える、と言う野望は持ち続けていたいと思います。


震災の余波で、いや余波と言うにはあまりにも大きな波であったのですが、色々な意見や展望が飛び交い、僕自身社会に対するいろいろなアイデアが日々浮かんでは消え、無理だ、いやしかしこれしか無いだろう、と言う自問自答を繰り返します。


作品を作ると言う勤め、これが一番大きな役割である事は言うまでもない。しかし僕自身はある作家に対してその作品だけを判断材料にして評価する人間でもないし、アートを社会的な機能として捉えたい人間です。


また作品にはどうしても作家の人生観が出てくるもの。逆に言うと人生が集約している場が作品になるのだと考えます。あくまでも僕にとってではありますが、決して残滓の様なものではないです。


作品に文脈と言うものがあるのなら、それは社会/外的世界から作家自身=作品に向かう複数のベクトルであり、集約地点として作品があり、そのベクトルはその地点を通り抜けて社会の別の場所へと再び抜けていく。個人への没入ではなく。


現代社会のイメージは、情報が色々な地点でリフレクトされて、文字通り光速で移動し、人間はその速度自体をエネルギーとしている気がします。


ですが僕は、どちらかと言うと情報が個々人を貫く際の感動や痛み、つまりある情報と速度が別の次元のものや出来事に変質するときのじんわりとしたエネルギーで何かを動かせないかといつも思います。情報は体を貫いて向こう側に出て行きます。ただし別の何かを纏って。そんな場に立ち会いたいと思って作品を作ってるんじゃなかろうか、僕。なによりこの一ヶ月少々で、速度に対する疑問と言うものが凄く自分の中で強くなりました。


じんわりとした良いものを沢山纏わせられる様になりたいもんです。なので野望は持ち続ける、作家自身=作品でありその外郭としてのライフスタイルがあるなら、その理想型にも頑固でいようと決意を新たにしております。この国における新しい場所は、個人主義を一旦突き詰め突き抜けなければ強度のあるものにはならない気がします。


皆さんと同様、毎日七転八倒です。
意外に今脳内に流れているメロディはGL○Yのa boyであります。歌詞はごググりください。


では。


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