アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

こんばんわ、宮永です。


引っ越しと、撮影旅行のバタバタから回復するのにずいぶんと掛かってしまい、ようやく最近落ち着いた暮らしに戻りつつある最近です。


昨日の花岡くんの日記をみてうんうんと頷いてしまいました。僕の場合は制作とは関係ない仕事(労働)は週の半分くらいなので、安定したトライアングルとは行かないのですが、第一に制作者であろうとする場合、ライフサイクルをシンプルに保つ大切さは最近とても意識します。


それから、最近制作で意識しているのは(もう何回もいろんなところで言っている気がするのですが)、発表場所ありきでない制作と言うものです。作品を寝かせておく、とでも言うんでしょうか、そう言うことも平行して出来る作家になって行かねばなあと思います。


一作品に取りかかると前しか見えなくなるタイプなのですが、もうちょっと多方面に可能性をばらまいて、同時並行的に作品をつくる感じ。アトリエに編集用PCが複数台あれば、、、いや、これは妄想ですが。


多分、自分の中にいろんな大きさの違う制作サイクルを幾つか持っているのが理想なんでしょう。そしてそのサイクルに従属して、仕事(制作)出来る様な諸環境と習慣を、早くこの手にしたいと思っています。欲を言えば仕事(制作=労働)に。とても難しい事ですが。


その、寝かせながら作ってる作品のキャプチャーを数点載っけときます。
制作途中の記録写真の様なものだと思って下さい。この先これらのフレームが作品中にそのまま残るのか、はたまた違う素材の下に埋め込まれてゆくのか、現時点では僕も分かっていないのです。分からないから作る、が全ての基本だと思っています。

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一体何ヶ月ぶりの更新でしょうか。すみません。。(木内さんは謝らなくても良いとおっしゃってますが、、。)宮永です。


Facebook等では既にアップしてるのですが、お詫び(?)に撮影旅行中に撮った写真を数点。


帰省のついでの撮影だったのか、撮影のついでの帰省だったのか良くわからないんですが、札幌に帰ったあと、数日間の撮影旅行に出ました。道順としては、札幌ー美瑛ー苫前ー札幌と言う感じです。


数年前Wondjinaを作った際には主に道東メインだったのですが、今回は道央と、ちょっと道北をかじった感じです。


まず行きのフェリーより。
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美瑛にて。
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苫前にて。
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京都に帰るにあたり、一応札幌駅あたりを抑えとこうと。
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僕はレンズ交換式のビデオカメラを使っていて、やはりいい映像を撮るためにはいいレンズをと言う事で複数揃えてみたのですが、そうすると今度は写真も撮ってみたくなった、と言う感じで、旅行中に意識的に、長時間の動画撮影の合間にスナップ的に撮る事にしました。


んで、この北海道プチ撮影旅行で撮った写真素材を実験的にミックス(動画と同じように、実写のレイヤーです)してみたものが、数点知り合いのやっているフリーペーパーに載る事になると思います。もう言っていいのか分からないんで伏せときますが、GURAにて最近リリースパーティーを開いたフリーペーパー、と言ったら分かる方には分かるかと。


思った以上に静止画のレイヤー作業が楽しかったので、手のあいた時に沢山作ってみたいな、と思っています。動画をレイヤーするのと静止画を重ねるのでは、時間に対してのアプローチが違うところが、とても面白いです。

それから、京都に帰ってきてから少し間をあけて、今度は新潟県の方に撮影に出ました。
被災後の東北に行った際、帰りは東北自動車道ー磐越自動車道ー北陸自動車道というルートで京都まで帰ってみた際、新潟の平野を見て撮ってみたいと思った事がきっかけでした。


単純に平野を撮りたいと言うよりは、人間が自然に働きかけて出来上がった風景と言うものをどう捉えるのか、と言う事が僕の興味の1つとしてあったからです。
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下調べをして撮影地に向かうと言う事はほとんどしないので、毎回現地で撮影スポットを求めて彷徨います。(彷徨う事に意味があると思ってますが)今回は結局弥彦山と言う有名なスポットになりました。とても面白い場所で、東を見れば平野が広がり、西は佐渡島の浮かぶ日本海がどこまで広がるという感じです。
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そして新潟からは、高速ではなく下道で、諏訪湖を経由して浜松へ抜け、京都へ、と言う感じ。例によって全て車中泊、時々コッヘルで自炊で節約と言う感じで、なかなかにハードではあります。


本当は、撮影旅行2つの間に、もっと旅行中の睡眠の質を上げるために努力をしていたのですが、その努力は新潟での初日に完全に無駄になった事以外詳細は伏せておきます。リベンジするつもりです。


このような僕の夏でありました。


さて、ちょっとだけ告知を滑り込まさせて下さい。
night cruising 6th anniversary vol.2 feat. Taishi Kamiya "Aroma Trace"

これに映像で協力させて頂きます。VJというよりは、BGV、とでも言うのでしょうか。
おなじみのpolar Mさんに加え、rexikomさん、そしてTaishi Kamiyaさんなどの方々が出演されます。

じつはTaishi Kamiyaさんとは一度浜松でのイベントでVJをさせて頂いた事があり、ご一緒するのは2度目。札幌出身の方で、僕も札幌育ち、札幌繋がり=北海道つながりとして、新旧の道内で撮影した映像素材を元に映像を現在鋭意ミックス中です。10/6、メディアショップさんのギャラリースペースにて行なわれますので、皆様是非お越し下さい。


そんなこんなで、一応の近況報告とさせて頂きます。
(次回も書けるよう頑張ります)


宮永亮

先日、数日間東京に行ってきました。昨年展示をさせて頂いたgallery αMでの、2011年度のプログラム「成層圏」の全プログラムが終了し、そのまとめとして同プログラムの三人のキュレーターの方々、そして中井康之さんが参加されたシンポジウムがあったため、それにお邪魔してきました。
これを終えて、僕としてもようやく1つの年度を越えたと言う気持ちです。


そしてもうすぐ来る来年度、4月末より京都で行われる「MOVING2012」が新年度の僕の最初の仕事になります。
僕は4/22、メトロで行なわれるMOVING Liveで、PsysExさんとの再共演を果たせる事になりました。あと非常勤職も再開です。


本年度はとにかくいろいろな予定をこなし、その中から自分に何が出来るのか、何が出来ないのか、、もっと言うと自分(の作家業)にとって最適な動き方はどういうものなのか、とにかく実際に動き、ぶつかりながら学んで行った年度でした。多分これからも毎年そのように死ぬまで生きてくのでしょうけども。


自分の問題だけではなく、色々な事がめまぐるしく動き、変わりましたね。
将来この年度を振り返って見ることがあったら、きっと大きなターニングポイントになっているのだと思います。そんなことをGURA内の自前の部屋の中で、未処理書類の山を周辺視野に入れながら(出来るなら見たくない)、しみじみ思って書いております。視野は広い方がいいですが。


京都も東京も含め最近同年代の作家さんに合う機会が多いのですが、最初から作家を目指している訳じゃなかった、と言う方が結構多いです。僕自身も同じなので興味深い。いつの間にか映像作品を世に出し、また映像というメディアの構造や情報の在り方と言う小さな窓から世界を見るようになりました。自分では気づかないうちに、多くの選択を積み重ねてきた結果として今の自分の場所がある事を感じます。


今後はもっと意識的な選択もしてゆこうと考えています。自分がどこに行きたいのかをしっかり見つめて。同時に選択をする事をもっと単純に楽しめるようになれたら良いと思います。選択を重ねると言う事は積極的に自分を、あるいは自分の持つ関係性を、繰り返し繰り返し再構成して行く事に繋がっていると思うし、良い事ばかりではないのですが、日々新たになって行く自分をどこまで肯定してやれるかの勝負やな、、と。


思い描いているものと現実とのズレは忌むべきものではなくて、おもしろい研究対象みたいなもんだと思っています。そのズレが自分と世界との関係をそのまま映し出す鏡なので。「ここに行こうと思ったけど、なんでか別のところに出た。なんでだ?」の「なんでだ?」を大事にするのが作家と言う人種だと個人的には思っています。なんでなのか、それが分かるとワクワクします。作品が「なんでか」の答えが作品の中に込められてると言う意味ではありません。作品は「ズレ」そのものの方です。


いまGURAにはNicholas Jones(www.njjones.co.uk)というペインターがレジデンスしてます。
やっぱり向こうの人は、とにかく議論をする、話す事で相互理解をしようとする、という情熱が凄いなあと思います。情熱というよりは文化に裏打ちされた行動様式の様なものかもとも思うのですが。それから制作と言う事に対してもっとカジュアルなのかな。なにか確固たるものを作り上げるということに傾注するというよりは、普段言葉をやりとりするのと同じノリで作品を介してもやりとりをすると言うか。
αMでご一緒したイギリス留学帰りの林加奈子さんともつい最近東京でいろいろお話をして、そういう立ち位置の違いがより顕著に感じられる自分になってきたのかもしれません。いや、そんなに沢山の海外の作家と交流した訳ではないし、交流場所も日本と言うホームなので、もちろん見えているものはまだまだ少ないと思いますが。違いと言うのは、面白いもんですね。


ちなみに、ちょっと告知入りますが、Nickと彼をうちに紹介して頂いた川崎優美さん、それから澤田拓人さんのミニグループショーがあります。古今燕と言う場所で3日間開催されます。題名からして凄く楽しみ(笑)皆様も是非お越しを。
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さて、花粉症との戦いはいったいいつ終わるのでしょうか。その日を楽しみに明日からも頑張って生きてゆこうと思います。皆様もご自愛ください。ではでは。


宮永

こんばんわ、宮永です。


先週末に東京のいくつかの展覧会に行ってきました。僕も展示させて頂いたgallery αMでの林加奈子さんの個展、森美術館でのイ・ブル展とMAM projectのホー・ツーニェン展(どちらかというとこちらがメインのつもりで)、そして東京都写真美術館でやっていた恵比寿映像祭、G/P gallery、MEMなどです。


自身がMOVINGに関わっている事もありますし、最近映像作品、インスタレーションをしっかりインプットできていなかったので、重い腰をあげて強行日程で。せっかくなので美術館展示(映像の)の2つの感想を述べようかと思います。海外の表現と言う視点で見たので、外国の作家の作品についてが主になりますが。


・MAM プロジェクト016: ホー・ツーニェン
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/project016/index.html


メインの作品として展示されている「未知なる雲」と言う作品の4チャンネルバージョンには素直に圧倒されました。
もともとはシングルチャンネルのビデオ作品だったそうで、僕はそれを見れていないのですが、おそらくあるビルの各フロアーで同時進行的に起こっている出来事(個々が小さなストーリーとして存在している)を再構成することで、「ある一つの物語」と言う感覚に疑問符を突きつける、と言う類いの作品だったのかなと思いました。


建築それ自体と、撮影システムそのものを明示する終わり方と、冒頭と最後に出てくる、16:9画面のフレームを模したと思われるものを介してのループ構造の暗示(かな?)が、なんというか小憎らしかった。ただもうちょっと良く見ると、映像内で見せたそれら自体も、見せたいイメージを作る為に用意された虚構なのかもしれないと言うところが、ミソなのかな、、とちょっと思いました。


で、そのシングルチャンネルのものが4チャンネル(音声は10チャンネルも有るそうです)に再編集されたものが提示されていました。シングルチャンネル版での個々のシーン(カットの集合)がカットに分解され、同時に4方向の壁にプロジェクションされていた。この展示方法では、画面は3つまでは同時に見る事ができるけれども、もう1つはどうしても物理的に見る事ができない、と言う状態が生じます。また作品内の時間が圧縮されているとも言えます。これはシングルチャンネルの方の映像の構造を見てみないと、なんとも言えないですが。


とにかく、鑑賞者は映像の美しさや音響の良さに酔いしれようとしても、見えない1画面が気になってキョロキョロしてしまうか、あきらめて見れる範囲の画面に集中するか、、、と言った具合に作品に対する態度の決定を迫られるところがありました。「映像のフィジカル」とは恵比寿映像祭の方のテーマですが、ここでもそれを強く感じさせられる結果になりました。


・ 恵比寿映像祭
http://www.yebizo.com/
最終日に駆け込んだので残念ながら上映プログラムは見れずでしたが、とてもためになる展示ばかりでした。基本的にビデオ(フィルム)とカメラの関係性を考えさせられるものが多く、僕が片足を突っ込んでいるモーショングラフィックスはあまり無かったのは、少し残念ではありましたが、、それはまあ、僕の個人的な話なので。。


初っぱなのマライケ・ファン・ヴァルメルダム(Marijke van WARMERDAM)は、パネルの両面を使ったインスタレーションでした。インスタレーション構造自体はどうしてもビル・ヴィオラを想起させるのですが(言ってもしかたが無い事だと思いますが)、両面プロジェクションの扱い方は全然違うと思いました。2面性を神話的な意味に回収するのではなく、画角の違いや被写体に対する距離の違い、カメラワークの違いが示されるところが面白かった。


ユェン・グァンミン(YUAN Goang-ming)の<消えゆく風景・通過II>は、最初は1つの横長の画面を3つに分割しているのかなと思いましたが、どうもよく見ると3つの画角の違うカメラを一つのクレーンの先につけて移動撮影をしている様な印象でした。3つの画面の境界と言うか、隙間にメンタルな意味を見いだすと言う以上に、3つのカメラの眼の現実の捉え方の違いが示されているところが興味深かったです。眼の数、画角の数だけ現実が生まれるとも言えるし、逆に映像体験に現実は無いと言う事も考えられる。カメラ自体を主体として捉えるかどうかによって、フィジカルかそうでないかが逆転してしまう様な作品だと思いました。


もっと書きたいのですが、長くなりそうなのでさらりと。ヨハン・ルーフ(Johan LURF)の作品は本当に実験映像の正当と言う感じ。実験映像に正当も何もないかもしれませんが。上映画面の中にMacのウィンドウの1部(こういうの↓)が含まれていたのは、何かのミスだったのか、技術的な問題でそうなったのか、敢えてなのかが気になりました。敢えてだったら凄くキュンとするなと。マニアックな視点ですいません、、。

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サラ・モリス(Sarah MORRIS)は、ちょっと建築や時代背景への勉強不足、なにより英語の速読力の無さのせいで、なんともコメントが出来ないです。映像の中に建築の契約書が出てきたりしていたのですが、その文章を読み取りきれなかったので、勉強をしないと、、。映像の構成にコヤニスカッティと近いものを感じた、と言うくらいしか言えないのが残念です。精進。


全般的に海外の作品は、もちろん相当にクオリティーの高いものが日本まで運ばれてくるからと言う面もあるでしょうが、1つの作品を作るための体制がしっかりしていると感じました。全てでは無いでしょうが、作家がいて、カメラマンやオペレーターがいて、技術者のサポートのもとに作品が作られている印象が強いです。作品が社会的なものとして立ち上がるために必要な事の1つに、そう言う体制があるのかなと考えさせられました。


海外勢ばかりの感想になってしまいましたが、林さんがtwitterで大木裕之さんの展示や上映について、「切実だった」とおっしゃっておられたのも気になりました。順路的には一番最後、トリの部分で大木さんのインスタレーションが展示されていました。名刺やレシート等、とてもパーソナルな感覚を呼び覚ますものが、映像が内部に投影された「庵」と共に展示されていて、他の作品のプレゼンのされ方とは対照的。この作品を順路のトリに持ってきた展示側の意図を考えてしまいます。


映像ってなんでしょうね。

皆様、お久しぶりです。長い事こちらをお休みしてしまってすいませんでした。


10月、11月、1月(現在京都児玉で個展中です、お越し下さいませ)、と出展ラッシュをなんとか生きのびて戻りました。正直生きた心地がしなかった数ヶ月ではありました。と言っても死んだ心地がしていた訳でもありません。まとめると、幸せなことだったのだ、と思います。宮永です。


変な導入ですみません。つらつら書きます。


今の世界で何かが広がるスピード、価値の変容や置き換えの速度なんぞと言うものは、既に人間の日常的な想像力なんてものは超えてしまっていると思います。ルートの広がり方自体も予測不可能になりつつある。と言うか、今まで勝手に予測できたと思い込んでいただけなのかもしれません。要するに何にも分かってないんですね、多分。ただ右往左往している。どうやら世界中皆そうなんじゃないか、と言う事が暴かれつつある。


人間の思考とは便利なもので、ある範囲の物事を一まとまりとして捉えると言う方法に長けています。方法と言うか、持って生まれた脳の機能と言っても良いかと思います。右往左往を括弧に入れて、「右往左往」としてとらえられる。それに似たまとまりを「別の右往左往」と呼んで、その間の関係性を考える。括弧内の事は、まあ後で、と言う風にできる。これは非常に単純で、便利な方法です。故に永遠に繰り返せると言っても過言ではないです。永遠に繰り返せる筈と言うところに救いもあり、実際人間は繰り返してきたんだと思いますが、最近はそのことにむしろ薄ら寒さを感じるようになって来てしまいました。


それは個々の行為としては繰り返しではあるんですが、結果として形成してしまうのは人間の想像力でも知覚しやすい規模の安定的な構造(サイクル)では無く、視界に映るのは無数に枝分かれして行く小道の集合体にしか見えない。エンジンの回転によるエネルギーが線運動に使われるのに似てるのかもしれません。


世界が心の機能の一部だけを肥大化させた現実に置き替わってしまっているのではと言う事は良く言われていると思います。人間は脳内に生きている、みたいな。ただそしてそう言うシステムを端的に社会と言ったりする訳で、またそのシステムによって初めて人間は自身の輪郭を知覚することができるのも事実なので、一概に悪とは言えません。


ある程度コンパクトな社会であれば、人間と言うものは社会そのものと自分自身を重ね合わせ、社会のミニチュアとして自分自身を認識し同化すると言う事も可能だと思います。単にシステムのパーツとしてではなく、システムの在り方、つまりその境界の描かれ方や動き方の特徴と言ったものに自分を合流させ、社会をミニマムに体現すると言う形での自己実現の形が成立する。


しかしそのシステムの在り方を個々の人間が捉える事自体が困難になると話は変わってくるのだと思います。内部から周りを見回しても、その形を認識する事ができないぐらいにいつの間にか境界線が膨張して視野から消えてしまっている。一因としては、人間社会のベースにあると思われる「括弧付け機能」とデジタル的な情報処理方法の親和性が有りすぎ、スピードが上がりすぎた、と言う事かもしれません。


そのような中では、一旦「括弧付け機能」の汎用性や便利さを見直す必要があると思います。と言うか、括弧の中の事についてもっと微視的に考えても良いのかも。


うーん、なんかうまい事纏まりませんでしたが、、今ちょっとそう言う事を考えていますというお話でした。引き続き考えます。

宮永亮

宮永です。
こちらのブログの方を何度も飛ばしてしまっています、申し訳有りません。
今回もめっちゃ遅刻したけど、頑張って教室に飛び込んでみた感じです。

先日東京のgallery αMでの展示作業と、オープニングのトークイベントを終え帰京(都)しました。
http://www.musabi.ac.jp/gallery/


今回の展示は、僕が昨年の夏に撮ってきた東北の映像と、その後近畿で撮った映像、震災後の6月にスウェーデンに行ったときの映像、それから震災後の東北を見に(撮りに、と言う意識ではとても行けませんでした)行った時の映像素材を元に構成された映像作品を中心に据えたインスタレーションとなっています。


「映像作品を中心にしたインスタレーション」と言うところに、ちょっとナニがあります。映像を現在の編集環境で作っていて思うところがあります。それは全てがデータとして扱われる、ものを通過することは、最初にカメラを動かす事、展示として出すときにスクリーンに映し出す事、の二点しか、実感としてとらえる事が出来ないと言う事、データ上であれば完成作品であれその素材であれ、はたまた中間素材であれ、一律に横並びのデータであり、映像編集のプロジェクトファイル(AEであれば.aepですが、イラレの.aiのほうが一般にはイメージしやすいかも)もそれらをそのように、横並びのデータベースとして把握し、読み込み、擬似的に重ねています。擬似的にと言うのは、その行程が可逆で、重ねたりやっぱり剥がしたり、と言う事が現実の物質を使うよりも異常に簡単である、と言う意味です。


一旦重ねた絵の具を奇麗にそれだけ剥がす事も、彫ったときに出た木屑から彫る前の状態に戻す事も至難の業であり、その事が逆に作品の強度を増す事実としてある訳ですが、映像はプロジェクトファイルに戻る事でそれが可能です。


現在において映像の特性とは、複製可能性に有ると言う見方も出来ますが、それ以上にマスターを再制作できる、と言う事が今までの「作品」と言う概念から見れば非常に大きな違いかと思います。はっきり言ってその事が作品の強度を下げる事も事実な訳であり、映像作家が頭を悩ませている事でもあります。ただ僕は、その事を面白いとも感じています。


今回のαMの展示では、勿論完成された作品の中に鑑賞者の方が何らかのメッセージを読み取って頂く事も目的であると同時に、日本や海外と良う地理的広がりや、編集時間の長さとは裏腹な、完成品と素材群の間の可逆性からくる映像メディアそのものの刹那さや曖昧さを示したいと言う事も目的の一つでした。そう言ったものこそが映像が芸術として成立する為の足がかりかな、と今思っているからです。
twitterやFB等ではちょくちょくお見せしている擬似的な部屋の構造を実際にギャラリー内に現出させ、その可逆性を象徴的に提示したつもりです。部屋自体が、組み立て、バラシが可能な個々の部材から作られています。また部材の一部をスクリーンとして利用しています。映像の構造もそうです。では実際のものとしての部屋の素材と、投影される映像の素材の本質的な差異は何だろうか?と言う問いをこのインスタレーションで投げかける事も出来るかと思います。


部屋の構造自体は、運びさえすればどこでも組めると言う意味で、何というかアン・サイトスペシフィック(正しい用法かわかりませんが)なのですが、展示としての配置は別の空間に持って行った際にはサイトスペシフィックな、つまり現場に合わせたものになるでしょう。完成品とデータベースと言う映像制作の構造がある限りは、(やりませんが)映像コンテンツを別の作品にまつわるものと交換も可能な訳です。


一見無限に見える選択肢や道筋のバリエーションから、何を選ぶのか、何が自動的に選択されるのか、そう言う問いは誰にでも投げかけられる事で、僕は映像と言うものを通してそう言う現代の事を考えている、と言う事になります。


どうでも良いんですが、切なさと刹那さって似てますね。これは恋なんでしょうか。何なんでしょうか。明け方に何言ってるんでしょうか、僕は。


※告知2点すいません。


αMとは別の新作を出展致します。祇園祭の映像素材を使った映像ドローイングのようなものです。
「ルネサンス ─京都・映像・メディアアート」展
http://plaza.bunka.go.jp/kyoto/rel_01.html


それから
TOKYO DESIGNERS WEEK 2011では旧作を児玉画廊より出品です。
http://www.tdwa.com/
画廊よりのステートメントを先に呼んでもらった方が分かりやすいかもしれません。下記です。
http://miyanagaakira.tumblr.com/post/12070825359/tokyo-designers-week-2011

一日遅れな事に気付いて慌てて更新です。毎度ですが。

今日は伏見の方は凄い雨と雷でしたね。京都全体でそうだったようですが。おそらく350m以内で落ちたんじゃないかと思います。でも夏の大雨と雷は風情があって好きです。

光と音の間隔(秒数)をざっくり数えて、自分を中心点として雷がだんだんと移動して行く様を想像するのは楽しいですね。
あと、同様の現象が人間には移動不可能な広範囲に渡って同時多発的に起こる感じ。100m先で起こったと思ったら数十秒後に何キロも先で鳴り、また300mくらいで起こる。その様子に耳を澄ませて雨雲の規模とか早さを想像する。これも楽しい遊びです。

同時に、雷を、かみなり、かんなり、かんだち、いなずま、いかづち、ごろつき、らいさま(wikipedia出典)といろんな名前で呼んだ時代の事とかに思いを馳せてみたり。科学も神話も思考体系の在り方のバリエーションとして等価に考えるのが好きです。

さて、報告と言いますか、スウェーデンでのVJアクトの動画を編集しましたのでご紹介。

MIYANAGA Akira VJ act, Visualization for Mokira
VOLT2011, 11 June 2011, at Uppsala Konsert & Kongress AB, Uppsala, Sweden



映像にかぶって来るうざったい影は本人です。すいません。しかたがなかったんです。
VJと作品の世界観をにじり寄らせて行く、と言う僕の狙いがある程度実現できたかなと思います。まだまだ精進ですが。

それからこれにも旧作が出張しているようです。展示の様子等はまだ見ていないのですが、有り難い事です。宮津大輔さんにはWondjinaのedition1を購入して頂いております。


他にもアートタイペイにもちょこっと持って行かれるのと、「地の灯について about the lights of land」のメインイメージをフランスで上映して頂けるとの事で、先日メディアを送付したところ、これはまた詳細告知致します。もう言っていいのかまだオフレコなのか確認できていないです、すみません。

そんなこんなでやっております。
大きな、悲しい訃報もありましたがやる事やらにゃと思います。いろんな意味で社会や身の回りの動きを感じる今日この頃であります。

8月中にHPつくるのとアー写撮ってもらうのが目標です。


宮永

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