アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

わぁーっ。うれしいですね。
mama!milkの生駒祐子さんが先のブログに書いて下さったこと。。。
そうなんです。もうすぐはじまる「MOVING 2012」にてオリジナル・オムニバスDVDが出るのですが、その中にはmama!milkの楽曲「Overture」にのせて作った「Alphabet of Acanthus」も収録してもらっています。
音と映像の関わり方はいろんな可能性がありますが、作品作りの最初から音のイメージをいだきながらつくるというのはとてもピッタリくる在り方で、「Alphabet of Acanthus」はまさにそうやって作らせてもらいました。
音に助けられてイメージしながら撮影が進み、音があると編集がほんとに楽しい!
そして音は・・・、そう音だけが意味を超越できる、感覚に直接入ってくる存在だと思うのです。。。(しみじみ)
映像作品にはとてもいろいろな要素が含まれ、いろいろな人が関わることもあります。音楽があり、出演者が居て。。。
それらが自分のものづくりを映す鏡にもなります。だから人との関わりの中でものをつくるありがたさはまた格別のものと言えます。


そんなことで〜今週末の4/20から「映像芸術祭 MOVING 2012」が各所で始まりますが、どうぞよろしくお願いします。
http://www.moving-kyoto.jp/


そしてYuko Kanamori "Alphabet of Acanthus"/sound:mama!milk/in MOVING 2012 DVDのダイジェスト映像をアップしてみました。


「映像芸術祭 MOVING 2012」のオフィシャル・トレイラーはこちらになります。
(polar M/村中真澄さんとかぶっちゃいますけど、何度でも!いいですよね?)



それから3月に開催していた展覧会「Memoriae(メモリエ)」に来て下さった方々、関わって下さった人へ御礼を。。。
おかげさまで集中した作業をすることができました。
最終日のパフォーマンスも展覧会を〆る大事なプロセスでした。立ち会っていただいた方々に感謝。。。


パフォーマンス「失われた島への到着の仕方」2012.3.17
演出・構成 かなもりゆうこ/出演 納谷衣美 
(撮影:北岡慎也 写真はDP1Xという特殊なCCDのカメラで撮影して頂いたもの)

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それではまた。

どちらかというと押し入れに空箱をため込んでいるたちです。
すっかり季節は早春になり、今頃?な話題ですが、昨年末の&art忘年会の時にわたしにやってきたクリスマス・プレゼントは、小沢さかえさんからの中身も箱もものすごく可愛いウィーンのチョコレートでした。
いまさらながらですが、小箱の写真をバ〜ンとお見せします。

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(中身はいろんな人と愛でながら食べちゃいました。それがまたミニアチュールみたいな小さな可愛いチョコでした。その上、これ日本だったらぜったい上げ底だと思うんだけど、チョコが2段重ねになっていました!)


この箱には、今度パフォーマンスに使う微小の小道具を入れて持って行こうと思っています。

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3/17まであと数日間、大阪・なんばのGallery HOSOKAWAで個展開催中です。
最終日の夕方にささやかなパフォーマンスを上演します。
『Memoriae メモリエ』の制作全体をみちびき、そして結ぶパフォーマンスです。
 かなもりゆうこ展『Memoriae メモリエ』(performance「失われた島への到着の仕方」)


展示作品の方は今回はとても小さな手作業の多い物になっています。
微細ながら、彫刻系な作業もありました。紙にパンチングをしたものは耳栓をしてハンマーでポンチをたたき続ける作業とか。じつは立体出身なのです。でも紙なのでヨワ彫刻系ですけども〜・笑。

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ついでにお気に入りのお道具も紹介します。
(ヨワ彫刻系だけに、むちゃくちゃ小ちゃい電ドリです。)

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こちらが開催中の『Memoriae』展示写真です(photo:北岡慎也)。

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中くらいのもの、でっかいもの、についてもまた今度、書くかな?どうかな。
それではまた。。。

お知らせをいくつか。



2/27-3/17に大阪・難波のギャラリーほそかわで開催の展覧会「かなもりゆうこ展 Memoriea--メモリア」。
くわしくはこちらで。


今回は先にパフォーマンスを作ることを始めて、そのプロセスで映像を撮ったりの感じ。空気感な映像、になるかな?(これから編集〜)
そして今回は微細な手作業をいろいろしたりです。素材は新しいものを入手せず必ず保存していたものを使おうという感じ。。。
どんな風になるかな? 軽やかに見れるものになるといいな、と。
3/17の最終日にささやかなパフォーマンスを予定しています。タイトルは「失われた島への到着の仕方」。
制作に入って、なにやらやっているうちに、数年の機が熟してポーのエッセンスも注入されたようです。
なんだかよく分りませんよね? まだまだ作業中なので、ごにょごにょ。
ということでどうぞお楽しみに。



子どのも本の岩崎書店から3/5発刊予定。
 『こんにちは美術』(文と構成:福永信)
 第1巻〈めくってたんけん! いろんな絵の巻〉
 第2巻〈めくってたんけん! ふしぎな彫刻と写真の巻〉
 第3巻〈めくってたんけん! いますぐあえる作品たちの巻〉
著者は小説家の福永信さん、わたしの作品も2巻に載っています。とても昔の作品でいろいろたずね歩いて収集した子どのも古着で出来た家の形の作品「明日の家」というもの。
この本は学校の図書館などに配本されるため、通常の書店には置いてないそうですが京都のアート系の本屋さんのいくつかにはしばらく置いているかもしれませんよ。


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本に載っているのとは別の写真ですが、その作品。
(違う場所で展示した形違いの「明日の家」/広島市現代美術館での展示「アート・スウィート・ホーム こどものための美術展」出展分/1999年 W180×D180×H240センチ 木材、子供の古着、古い窓)


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追伸〜12月のブログで言っていた『INVITATION from Spike Jonze』は、期待通りの素敵なムービーたちでした。



しかし、もうちょっと寒さガマン、、、。
のりきれ冬2012!
みなさまも暖かくしてお過ごし下さい。

新しい年です。今年もどうぞよろしくお願いします。
昨年はこころもとなく過ぎて今まだ虚無点に立っているような感覚ですが、やむをえずの思索を続けてひょっとしたら何かが見えて来たら幸いというものです。作品づくりもまたそんなような仕事なので、皮一重のところに在るものを見つけたり伝えたりできるように、この虚無を新鮮な0"ゼロ"点としてものを裸の目で見ることを鍛えていきたいと思っています。・・・ちょっと真面目くさった新年抱負でしたね・笑。
この虚無点・ゼロ点・瞬間を思ってタルホ『一千一秒物語』を再読してみました。90年刊。出版黄金時代の感無量の造本。
帯には "この超(ウルトラ)・ココア色のガラスのごときもの" 。


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さて、ただいまは作品の制作に入っています。
新作展「Memoriae(メモリエ)」と、その関連パフォーマンス〈失われた島への到着の仕方〉の作業中です。
詳細はまた情報コーナーで追ってお知らせいたします。


良い年になりますように。



制作期前の労働期で日々は内省から離れて身体レベルでのエクササイズな感じでした。そういう時期もまた"良し"(何かのエチュードであり、肥やし)なのですが、今回はその間にもふらりと観に行っていた映画のことでも書くかな? と思います〜。


ドイツでいちばん好きな映画監督と言えば。ヴェンダース、ではなくて、わたしならヘルツォークをあげちゃいます。
ヴェルナー・ヘルツォークの映画の中でひときわ異彩を放っていた俳優("怪優"とよく表現されている)クラウス・キンスキーの没後20年ということで、このところヘルツォーク作品に映画館で再会できる機会に恵まれました。
ヘルツォークに出会ってからすぐにそのとりこになったのは、やはりその創造性にシンパシーを感じたからなのです。
プロセスや出演者との関わり方、演出の仕方、それから純粋なものに対する思い、カオス渦巻く多様な人格を認めることのできる中世の感性。もちろん、意志の強い冒険家的な創造者であるヘルツォークのまねなどとても出来るものではないのですが。とっても敬愛、信奉~。
荒ぶる神のような創造的なエネルギー、人間の深く繊細な洞察、それから審判者(さにわ)としての客観性。それらを兼ね備えたものに圧巻されるのです。
ヘルツォークの映画では主に主人公は敗北します。おそらくその純粋さゆえに。社会でははみ出してしまう。しかし無垢さ純粋さを忘れたくない私たちはやはりハッとしてしまう。また壮大な物語には地球的なエロスがあるのです。
ということで、ヘルツォークはおすすめですヨ、というお話でした。
クラウス・キンスキーが出ている作品群も良いのですが、わたしは『シュトロツェクの不思議な旅』『神に選ばれし無敵の男』も大好きです。
いずれも俳優さんではない人が出演しています。『シュトロツェクの不思議な旅』の方はブルーノ・Sという辻音楽師、『神に選ばれし無敵の男』の方はストロンゲストマンで優勝した本物の力持ち、ヨウコ・アウラが出ています。しかしクラウス・キンスキーもまた他ではもてあまされる不世出の社会からはみだした人物だったのです。
そういえば、ハーモニー・コリンの『ジュリアン』にはヘルツォークが出演していました。へんなお父さんの役でした。あの映画は皆へんなんですが、映像のざらつきがうっとりするくらい美しくて好きです。完全なる絶望があって、ならば自分で美しい風景を作り出してやろうという気概が感じられます。それは『ガンモ』にも共通すると思います。


ロベール・ブレッソンのニュープリントは、これまた再見しておこうと思い通いました。
ブレッソンは『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』をはじめとし、ごく希な上映の機会に繰り返し見て来ました。
今回は『スリ』と『ラルジャン』。映画職人~。すばらしい、泣けます。(いえ泣くのは私だけかもしれませんが、、、ブレッソンもツボです)
メディアはメッセージ ならぬ 手法こそがメッセージ とでもいうのでしょうか。
社会は小さきものを黙殺します。ムシェットの怒りはイヴォンの怒り。ブレッソンの映画はその手法の素晴らしい魔力に気持ち良く圧巻されながらも、物語の終末は不透明です。その不透明さはそのまま社会の不透明さです。『ラルジャン』で言うと、何気ない日常の小さな無関心の積み重なりが悪意の芽となり、大きな破壊と絶望をおこすに至る。こう書いてみるとなんだか原発やら水資源やらデフレやらの問題と同じように思えて来ます。
先日、岩井俊二監督が『friends after 3.11』に関するコメントで語っていたことを思い出しました。「・・・ようやく敵の姿を見つけた!と思ったら、よく見るとそれは自分の背中だった」というような内容でした。
私たちが社会に順応するためには無意識や無関心というチャンネルが働いているおそれがあるのです。
その小さな無関心の積み重ねがもたらすものをブレッソンが冷静に必要最低限のシンプルさで垣間見せてくれる。(※『ラルジャン』は原作はトルストイです)
ところで俳優さんでない人を使って映画を撮るということも、おそらく多くの人がブレッソンに学んだところがあると思います。
そして、わたしはと言うと、作っているものは全く違って見えても、全く"足もと以下"でも、これらの監督から大きな影響を受けていると思います。


ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』とロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』。貴重本なり?

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今日は繰り返し見ている映画についてでした。
忙しくなるとなかなか映画通いできなくなるのですが、スパイク・ジョーンズの『INVITATION』は楽しみにしておこうと思ってます。


それではみなさま良いクリスマスとお正月をお過ごし下さいね。。。

修理や掃除に時間をさくのは私のまた一つの面なのですが、リペアについては、若い頃、商業物をデザインする仕事をしばらくした後から、欲求として芽生えた思いでもあるし、手入れは、一つの物に愛着を持って接したいという思いが少しずつ育ってきたのだと思う。


それらは元のように直すことだけでなくて、時には無作法に思いきって扱うこともある。つくる・破壊・繕う、それらはじつは変種で、"先へ進む"という同じ方向性へと向かっている。美しいものを見る・作る快美を知ってしまったものは、もはや後戻りすることは出来ず、それにこだわりおぼれ、進んでいくのではないでしょうか。


長い時間をかけた幾度もの洞察と認識の繰返しの末に、ものが出来上がっていく。たくさんの寄せ集めた認識の集積の果てに、腑に落ちて、完成する。そういう意味でアートもまたブリコラージュそのものであるとも言えると思うのです。そして、何を見て、見つけるかという、視線と視力がとても大事と思います。


ということで、他愛もないのですが今日のリペア。カバンの取手周辺。(裏を青いリボンで、根元を刺繍で補強)
日々のこともエクササイズと化しつつ?(いえヒマ人...)
仕事や生活からも学び肥やしに、と。まさにブリコラージュ人生な面はありますよね? みなさん。



もうすぐ父の命日なのですが、実家と離れて暮らしていると日頃はついつい忘れがち(ごめんなさい)なので、(今年は五年目なのでとりたてて法要というのもないし)供養も兼ねてちょっと生き死にについて考えたりもして、みるか?(と、言っても大したものではないのだけど)。
なんでも三途の川の渡し船は三人乗りで「一年のうちに同じ家から二人亡くなると、もう一人引く」なんてことを言いますが、父が亡くなってひと月後に私のいとこ(父の甥)が亡くなり、その半年程あとにいとこ甥(父の大甥)が亡くなった時には、「ひ~っ、お父さん、連れて行くのはやめたって~」と思ったものでした。まぁ、時折そんな迷信と合致して驚くこともありますが、うちはまったく霊感にうとい家系です。
そんな父は持病があったこともあり、自分なりにちゃんちゃんと準備していたようで、亡くなってから「何も困らなかった」と母が言っておりました。父は末っ子なので自分の家の墓地は前々から購入していたし、「(父が書いておいた)石塔の指示がまるで設計図みたいで、そのまま墓石屋さんに持っていったらスムーズだったわ~」と母が笑い話で皆に言っていたほど。
ところで、こうした準備は「死んだら"ご先祖様"になる」という日本人の死生観によるものなのだなと、最近になって考えてみたのです。
なにせ私たちは自由奔放で身勝手な世代でして、そういうことを今まであんまり思いつかなかったのです。
―そう、時代に"自分探し"を半ば強制されたしんどい部分もあり、自分が特別な存在であることを強いられて、オカルト雑誌やSF漫画からの影響なのか「自分の前世はどこどこの国のだれそれ」なんて時空を超えた転生物語を信じていたりする場合も? それに私自身を思うと、この道を選んだ生き方上(表面より本質と思う頑なさゆえ)仕方のない部分はあるものの、ことあるごとに通過儀礼的なものに一線を引いてしまう(もちろんそんな堅気な父とはものすごく仲が悪くて、娘にことごとく無視される気の毒な父でしたヨ・苦笑)。
だけども、死んだらとんでもないものになるのではなくて、、、この国の、この土地で、そして家の"ご先祖様"になるという昔から多くの日本人が自然に培ってきた感覚はけっこうすんなりピンとくるものだなと、思いましたわけです。
今回もなんだか自分メモワールな文になってしまいました。。。「日本人の死生観」なんてタイトルもなんなんで「ふるきをたずね」みたいな。


秋雨の夜長に―。



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