アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

 かわらず、時間ができると映画館に逃避する夏のわたしでした。夏休みだけに子供向けの映画がたくさん出てくるんですが、大人向けもどうして頑張っております。今週は少し涼しくなり、じんわりしんみりしてくると、夏の思い出を振り返る、そんな時期に来ておりますね。中でもわたしの今年のベストを更新したのが『イーダ』(監督:パベウ・パブリコフスキ)。言葉の少ないこまやかな表情の登場人物たち、きれいな光の4:3の白黒画面でこんなロードムービーを見せられたら、確実にノックアウトされてしまいます。個々の孤独や絶望、そして意思の萌芽を、少女イーダとともにそして他の観客とともに旅して...、言葉を越えた思考を残してくれる(このことこそ最も重要な体験だと思います)。いまだこのような映画を生み出せるポーランドに拍手をおくりたいです。映画/映像にしかできないことはたくさんありますが、光と絵と表情と間合い(時間)...これらを感覚に届く次元で練り上げていく、ていねいな仕事から美しさが生まれます。帰りの足取りもよく覚えていない、そんな映画にときおり出会えます。終映までにもう1度観たいなぁ...。
 それからちょっと楽しいのは○・ジョイ京都のシアター5。ベッドの半分程もあるソファ(1人1コ)でものすごい個室感が味わえます・笑。映画によって向き不向きもあると思いますが、わたしは過日『ぼくを探しに』(監督:シルヴァン・ショメ)を見たので、ちょうど良かった。個人の記憶探し、プルースト『失われた時を求めて』のエッセンス、そしてミュージカル。それからベルナデット・ラフォンの遺作でもあります。ちなみにこちらのシートはくつろぎすぎて帰り骨抜きになります。


そんな夏の日常〜。
秋は秋で、秋の映画(やもろもろ)を楽しみに。

よく晴れた暑い暑い週末の日に、坂を上がって来てくれた人たちと、つぎはぎリボンのワークショップ。
CAPアート林間学校2014。
ひとつ上の階では藤本由紀夫さんとCAPのディレクターのシモダさんが無響室をつくるワークショップをやっていて、針金ハンガーを糸で釣って"響き"を実感したり、脚立にフトンをかぶせて無響室をつくったりしている。
う〜ん、おもしろそう。
チラ見だけして、こちらは...ちんまり可愛くー、


しかし、可愛いもの美しいものを探ろうとすることは強い意志であり、これが発展すると闘いでもあるのだよ、ということを。子供達にはその小さな芽を、大人たちには実践者としての同志の姿を見るのでした。


↓布を裂いてはつないで、自由に作ります。使い方ももちろん自由。
〈子供たちチーム〉
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子供たちはパステルカラーやうすもののオーガンジーが大好き。


〈大人たちチーム〉
kanamori_ws_2.jpg
大人たちは造作や色のアクセントのつけ方が我がを行く感。


それにしても、短い時間だったので小さいのをひとつ作るかなと思っていたら、3つ4つとか、とても長〜いものとか、みんな勢いよくで作っていました。
このスピード感、躊躇なし感も、見ているこちらが楽しい〜。
用途もてんでばらばら---ブレスレット、ストラップ、ネックレス、帽子に飾る、ヘアバンド、ベルト...などなど。


↓こちらはワークショップのために作っていったサンプル
kanamori_ws_sample_1+.jpg


猛暑の時期を乗り越えるのに気持ちも少々クールダウンして、自分もリボンのようにダラリ〜っとのびたいと思います。


みなさまも暑さをひらりとかわしながらどうぞご自愛ください。
暑中お見舞いにかえて。

気がつけばブログの更新がとどこおり...、ひさびさに登場しています。
つないで下さっている方々、ありがとうございます。
で、まったく自分の担当日ではない時に登場してしまっています。
とにかく気が向いた時に、ということで。


先日のこと、とても昔の作品について尋ねられ、それは自分もすきまに置いて忘れていたような作品で、質問に答えるべくこれがいったいどういうものであったのか思い出してみることがありました。忘れていたのを幸いに改めて客観的に作品についてトレースしていくと、様々なことが今と変わらず既にあること、あるいは進歩のなさとでも言うべきものに驚かされるのでした。気合いを入れた作品と作品のはざまに作ったような忘れてしまうくらいのものはかえってある純度を留めて、他とは違う空気をまとっているのかもしれません。それにてしては手作業量があり、これに何の意味が?と、当時はうんうん考えながら作っていた気がするのですが。


質問はいろんな作品の中で単に「これ何だろう?」というだけのものだったのですが。
徳島の学芸員さんが7月に市民向けのレクチャーをして下さるんだそうです。
 http://our.pref.tokushima.jp/flair/ft/info.php?id=12534
一般の方へのレクチャーをこつこつしていこうという学芸員さんの気概、とてもありがたい思いです。
だって私たち、「何をしている人ですか?」なんてふつうに聞かれたら、まずは「う~ん、ごにょごにょ」ってなってしまいますもの。


過日『闇のあとの光』を観ました。(この映画は今のところ私の今年のBESTになりました)
カンヌで監督賞を受賞したカルロス・レイガダスは「観客の知性をリスペクトしている」と語ったそうですが、私も世の中で作品と観客がそのような関係になれることをいつも願っています。



ところで、現在も別の小さな手作業を合間で続けていて、前述の忘れられた作品と似たようなことをしていたんだなと気づいて可笑しくなりました。かける時間や人が見た時の美しさは気にせずにやっている作業なのですが(つまり目的は出来るだけ無くして楽しめるだけやるというスタンスで)、ある時には矛盾して時折その中から人に贈り物をするという目的も持っています。しかし矛盾こそが大切と思っているのが本心です。
小さなものであるのは『ポータブル文学小史』(エンリーケ・ビラ=マタス)へのオマージュですが、逆にこの作業をしていたらこの本がやって来た、とも言えますし、むしろ私は無意識のふりをして意識的にこの本を選び取ったのでしょう。
ところでビラ=マタスは、表現の未来の可能性ためにひとまず"ノー(否!)"を登場させて可笑しく小説にしてしまうような人です。


私もいつか小さなものがたまったら小さなトランク(もしくは夏ならバスケット状でも良いのでは?)に詰めてみたいと、目下のところ思っています。もしも同じようなことを考えている人がいたら、いつかポータブルな催しというものをしてみたいですね。


こちらも一般向けに夏のワークショップをする予定です。
 『CAPアート林間学校2013』にて〈手づくりのリボン〉のWS
 http://www.cap-kobe.com/studio_y3/2014/06/25144853.html


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たとえば、空や水や木々を見ているだけで、飽くことがない。そんな、ただ光の反射を受像しているような視覚体験と、名付けられたものを確認してゆくような視線の間には、何か決定的な違いがある。ものの知識に未熟な者にはそれゆえの特権があたえられている。私たちは認識の過程で、何かをひきかえにしている。そのひとつは"光としての世界"への感受性かもしれない。幼い子供や、他の動物たちには、世界はいったいどのように見えているのだろうか。


そんなことを考える日々の中、いつものように映画館にいると、メカスの『ウォールデン』の予告編が流れていて、こんな言葉があった。「映画はやがて塵となって消える。」「だから、ただ画面を見つめればいい。」メカスやブラッケージの映画を見る時、私は目を細めてきらきらとした光とその周りの闇を、ただ受け止めている状態になってしまう。


それから、先週は、木藤純子さんが席主を務めた明倫茶会を訪れた。人は暗闇にいると、光に対する感度がぐんぐんと何倍にもふくれあがってくる。30分もいると何千倍にもなるそうだ。光が発せられてから自分の目に届くには時間がかかるということを、身をもって感じることができる。この日彼女は、曇りの日のわずかな自然光を極少だけ使った展示やお茶席を設け、私たちの想像力の断面をひそやかに切り開いてみせてくれた。


私たちには、認識の奥底にわずかに残された光を見る目がある。だからこそ、ものの意味を越えた純度の高い世界の空気を感じることが出来るし、それらの境界に創造の源泉が隠されてるのだと思う。
そして、そんな空気の動きを感じ取ろうという、ちょっとした狂気にとらわれているのが、私たちなのである。


私は手のひらの"かかと"で、目をすっぽり包んで、体の中の暗闇を見つめるようなことを時々する。(もとは制作のパートナー・納谷衣美さんに教えてもらった目のエクササイズのひとつなのだけれど)
いったん光のない時間の深みに戻って、光で見える世界の真実を見たいと思う。
私たちは何かの感覚を得ると、それとひきかえに失うものが少なからずある、ということを忘れずに。

 

2月末、貝殻山のあちこちで見かけた野生のミモザのつぼみ。もうすぐ咲き乱れて黄色があふれるのでしょう。
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それではまた。
(タイミングをはずしつつのブログアップの気ままをお許し頂きますよう。)

2014年の初めもちょっとのんびり遅れぎみのブログアップになってしまいました。
二十四節気では大寒から15日後の立春(2月初め)が1年の始まりなので、今は年末にあたるそうですが。
この季節、さすがに冷えます。しかし、寒さを楽しんで。
寒中お見舞い申し上げます。


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それでも雪が降る日は少なくて、先日の雪化粧の日の朝は思わず、誰もいないうちに、と思い散歩。
実際は同じようなことを考える人もちらほら、単に散歩をしている人、カメラを持ったおじさまなどなど、みんな一様にちょっとうれしそうで、お互いに静かにおはようございますのあいさつをしたりして...。


その夜更けには折しもヒマラヤの寒いところのお話を読んでいたのでした。


またもやメモですが、今度は手帖ではなく、卓上メモ。
暮らしや仕事のリストから、気にかかった本の名など、ランダムに書きなぐられています。
図書館に行くと、そのたまったメモの中から検索してみたりして。お正月明けに借りた本です。
お見苦しいながら、
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「地図に仕える者たち」。タイトルだけで既にわくわく感は満足ですね。
いつ、何で知ってメモをしたか、少々おぼろげなのですが......、確か...池澤夏樹さんがおすすめしていたような記憶......。


主に19世紀を舞台にした、博物学の香りのする物語が静かにつながリ、古地図や標本のような短編集。
(書名になった「地図に仕える者たち」はヒマラヤ地図などの不完全な部分を埋めるために過酷な三角測量部隊が活躍した時代が舞台)


本に添えられた2つのエピグラフもちょっと良い感じでした。(へんな趣味ですがエピグラフ好きです)


動くこと、見知らぬ土地を旅することが生きることでなくて、何だというのか? さらに言えば、場所を移動すること---動物の特権だ---はおそらく知性を得る鍵なのだ。---(略)(ジョージ・サンタヤーナ『旅の哲学』)


故里を去りゆくものは、いくたびもあとをふりかえる。---(略)(ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノの第八の悲歌』)



昨年は少しは小さな旅をしました。
その中から寒中お見舞い葉書に使ったスナップ。


リュブリャナ 春、2013年

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バッサーノ・デル・グラッパへ向かう列車の中で 秋、2013年

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バッサーノ・デル・グラッパにて 秋、2013年(video still)

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(バッサーノはグラッパ発祥の地だそうです。写真や映像系の方には、三脚などのマンフロット社の本拠地と言えば分かられるでしょうか)


最後はなぜかお馬です。
本年もどうぞよろしくお願いします。

足もとに広がる落葉を楽しむ季節もつかの間、一足飛びに冬ですね。
この季節は今年と来年の2冊の手帖が机に転がっているのも特徴です。
日記はつけないのだけど、手帖には移動中なんかにひらめいたり見つけたりした言葉が備忘録として、読み取り可不可ぎりぎりのミミズのような文字で、思わぬページに書きつけてあって、ときに開くと自分でも驚かされます。
あとで調べたいものの名前や、車内で読んでいた本からの一節、過日観たものへの自分なりの考えとか、わが身が関わるものへの警句や新しい見方のひらめき......などなど。ほとんどはぽつぽつと書きつけた数文字の羅列から、後から違ったシチュエーションで読むと赤面ものの志高い文面、とか、一節だけ読むと意味不明な小さなテクストの数々。これは何なんでしょう?(鳥頭・笑)
"象徴的な言葉"をいくつかつなげると森羅万象的に何かの世界が出来上がる、というのが言葉のはじまりなのだそうですが、ちょっと浮かんだことを書き留めておかねば、とにかく記憶が悪くてすぐ忘れちゃうのです。
かといって手帖のすきまページを見ているとこの1年が立ち上がる、というのではないのですが。
きっとこれは"象徴的なビジュアル"でもオッケーなんだと思います。ほんとはこっちの方が向いているのかな。
でもビジュアルはあまり忘れない気がするなぁ〜。やっぱり言葉向きの人間ではないのでしょう、ということで(笑)。
はずかしいので手帖はそのうちに抹殺されると思いますが、今年の手帖で人に見せてもいいちょっといい言葉はこれかな?
(自分の言葉じゃないからだけど)
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でも何の本だったかな? きっとあれかな? という感じ。。。
それに分かるようで、実はとても難しいことで分からないような、(というところが)気になる一文。
謎が多いところが、興味を継続できるということで、来る年へつなげたいと思います。( < 無理矢理ですね☆)
それでは良いお年を。

この夏の陽射しのきびさしと暑さには、もう辟易してきましたよね。お店や催しなどは涼しくなる夕方からの活動の幅が広がるように1時間 "遅い" サマータイム導入なら良いかと思います。。。なんてのは宵っ張りのたわごとですね・笑。それにしても、お陽さまの光の激しすぎ、熱すぎるのにはもう、閉口して無言になってしまいます。そして、光が無いとものは見えないのだけど、明るすぎると今度は逆にまぶしくて見えないものが出てくるってことが光の不思議なところで、なんだかもう半分目を閉じて白昼夢のような気分になります〜。<いえもう、夏のなまけぶりの言い訳にすぎません〜。


私などはもともと「見る」世界に取り込まれた哀しい性の人間ですが、映像を作る人は、光を見る目でものごとを見るくせもついてます。それはとても美しく切ない瞬間の連続です。とはいえ、光には人がまだ感知できないものがたくさん含まれているということらしいし、この数年で「目に見えないもの」について私たちはうんと考えさせられたと思います。そのため「目に見えないもの」を考察するクリエイションや、そこに光を当てた提示も多く見うけられるようになりました。しかし私たちはもとより、見ようとしなければ見えないものを現す者であります。


さて、夏の暑い間、映画はやはりいつものように観ていました。映画館で椅子にすっぽり体をあずけて、一人で観る。家でゆっくりDVDを観る。この時間はとても重要だと思うし、涼しい場所にこもって、〜なんてほんとうにこの季節向きです。映画館の中には8月15日の終戦の日に合わせた戦争に関する映画のプログラムも垣間見えましたが、最近自分で個人的に家で観たもので印象に残ったものは『アンダーグラウンド』(エミール・クリトリッツァ/1995年/フランス・ドイツ・ハンガリー・ユーゴスラビア・ブルガリア 合作)再見と、『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー/2002年/フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス 合作)でした。
『アンダーグラウンド』は春にスロベニアに行ったこともあり、再見しておこうと思いました。というのもスロベニアにおもむく際に、何もこの国のことを知らず、名前を耳にすることもほとんどなかったからなのです。それもそのはずでスロベニアは1991年に旧ユーゴから独立したので、私たちの世代では子供の頃にこの国の名前を耳にすることはなかったのです。その上に公開当時この映画を見た時の自分の理解力の低さもあり--。貴重な実録映像がふんだんに使われ、制御不可能な紛争というものをバカバカしく壮大な映像絵巻として展開しているこの映画が、20世紀の最重要映画のひとつと言われたことの意味を少しずつ知っていく映画体験です。
『戦場のピアニスト』は、先日公開された『ロマン・ポランスキー はじめての告白』(映画監督ロマン・ポランスキーのドキュメンタリー)の中で、「あなたがお墓に持っていくとしたらどの映画ですか?」という質問にポランスキーが「それは『戦場のピアニスト』です」と答えていて、観ていなかったこの映画を観ることにしました。第二次大戦中、ナチスドイツ侵攻下でユダヤ人としてポーランドで生きた実在のピアニストの自伝を映画化したもので、幼少期に似た状況を過ごしたユダヤ人としてのポランスキー自身の体験を重ねています。
20世紀はどんな世紀だったかと思うと、これほど人が人を大量殺戮した世紀は無かったのではないかということ。。。しかし21世紀もまた「見えないところで」何かかが起こっている不安にさいなまれ続けています。見えないものを見ようとする試みは、ますます大事になることは確かです。それとともに、暗闇でしか気づくことが出来ないような、まるで眼の裏側を見るような深層の存在にも立ち止まらなければならないと気づかされるこの頃です。


今週は映画館で『はちみつ色のユン』『クロワッサンで朝食を』『TATSUMI』を観る予定〜。
上記の『ロマン・ポランスキー はじめての告白』もおすすめです。
それからニコラス・レイの『We Can't Go Home Again』と、そのメイキング的なスーザン・レイ(ニコラス・レイの奥さん)による『あまり期待するな』も興味深い映像でした。『あまり期待するな』ではジム・ジャームッシュやビクトル・エリセによるコメントもあってお得感。。。この2本はセットで観るのが良いです。(それにしても「僕らはもう帰れない」(We Can't Go Home Again)というタイトルにもクリエイターにはドキリとするでしょう。やめてもいいのに、やめないんだな、というのが映画を見ててもズキリときましたもの。。。)
なんだか映画宣伝家みたいになってきましたが、私見につき、くれぐれもお読み流しください。。。


今月もちょっとずれた日程で、おもむくままでした。
秋がとにかく待ち遠しい日々です。



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