
新しい年です。今年もどうぞよろしくお願いします。
昨年はこころもとなく過ぎて今まだ虚無点に立っているような感覚ですが、やむをえずの思索を続けてひょっとしたら何かが見えて来たら幸いというものです。作品づくりもまたそんなような仕事なので、皮一重のところに在るものを見つけたり伝えたりできるように、この虚無を新鮮な0"ゼロ"点としてものを裸の目で見ることを鍛えていきたいと思っています。・・・ちょっと真面目くさった新年抱負でしたね・笑。
この虚無点・ゼロ点・瞬間を思ってタルホ『一千一秒物語』を再読してみました。90年刊。出版黄金時代の感無量の造本。
帯には "この超(ウルトラ)・ココア色のガラスのごときもの" 。

さて、ただいまは作品の制作に入っています。
新作展「Memoriae(メモリエ)」と、その関連パフォーマンス〈失われた島への到着の仕方〉の作業中です。
詳細はまた情報コーナーで追ってお知らせいたします。
良い年になりますように。

制作期前の労働期で日々は内省から離れて身体レベルでのエクササイズな感じでした。そういう時期もまた"良し"(何かのエチュードであり、肥やし)なのですが、今回はその間にもふらりと観に行っていた映画のことでも書くかな? と思います〜。
ドイツでいちばん好きな映画監督と言えば。ヴェンダース、ではなくて、わたしならヘルツォークをあげちゃいます。
ヴェルナー・ヘルツォークの映画の中でひときわ異彩を放っていた俳優("怪優"とよく表現されている)クラウス・キンスキーの没後20年ということで、このところヘルツォーク作品に映画館で再会できる機会に恵まれました。
ヘルツォークに出会ってからすぐにそのとりこになったのは、やはりその創造性にシンパシーを感じたからなのです。
プロセスや出演者との関わり方、演出の仕方、それから純粋なものに対する思い、カオス渦巻く多様な人格を認めることのできる中世の感性。もちろん、意志の強い冒険家的な創造者であるヘルツォークのまねなどとても出来るものではないのですが。とっても敬愛、信奉~。
荒ぶる神のような創造的なエネルギー、人間の深く繊細な洞察、それから審判者(さにわ)としての客観性。それらを兼ね備えたものに圧巻されるのです。
ヘルツォークの映画では主に主人公は敗北します。おそらくその純粋さゆえに。社会でははみ出してしまう。しかし無垢さ純粋さを忘れたくない私たちはやはりハッとしてしまう。また壮大な物語には地球的なエロスがあるのです。
ということで、ヘルツォークはおすすめですヨ、というお話でした。
クラウス・キンスキーが出ている作品群も良いのですが、わたしは『シュトロツェクの不思議な旅』『神に選ばれし無敵の男』も大好きです。
いずれも俳優さんではない人が出演しています。『シュトロツェクの不思議な旅』の方はブルーノ・Sという辻音楽師、『神に選ばれし無敵の男』の方はストロンゲストマンで優勝した本物の力持ち、ヨウコ・アウラが出ています。しかしクラウス・キンスキーもまた他ではもてあまされる不世出の社会からはみだした人物だったのです。
そういえば、ハーモニー・コリンの『ジュリアン』にはヘルツォークが出演していました。へんなお父さんの役でした。あの映画は皆へんなんですが、映像のざらつきがうっとりするくらい美しくて好きです。完全なる絶望があって、ならば自分で美しい風景を作り出してやろうという気概が感じられます。それは『ガンモ』にも共通すると思います。
ロベール・ブレッソンのニュープリントは、これまた再見しておこうと思い通いました。
ブレッソンは『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』をはじめとし、ごく希な上映の機会に繰り返し見て来ました。
今回は『スリ』と『ラルジャン』。映画職人~。すばらしい、泣けます。(いえ泣くのは私だけかもしれませんが、、、ブレッソンもツボです)
メディアはメッセージ ならぬ 手法こそがメッセージ とでもいうのでしょうか。
社会は小さきものを黙殺します。ムシェットの怒りはイヴォンの怒り。ブレッソンの映画はその手法の素晴らしい魔力に気持ち良く圧巻されながらも、物語の終末は不透明です。その不透明さはそのまま社会の不透明さです。『ラルジャン』で言うと、何気ない日常の小さな無関心の積み重なりが悪意の芽となり、大きな破壊と絶望をおこすに至る。こう書いてみるとなんだか原発やら水資源やらデフレやらの問題と同じように思えて来ます。
先日、岩井俊二監督が『friends after 3.11』に関するコメントで語っていたことを思い出しました。「・・・ようやく敵の姿を見つけた!と思ったら、よく見るとそれは自分の背中だった」というような内容でした。
私たちが社会に順応するためには無意識や無関心というチャンネルが働いているおそれがあるのです。
その小さな無関心の積み重ねがもたらすものをブレッソンが冷静に必要最低限のシンプルさで垣間見せてくれる。(※『ラルジャン』は原作はトルストイです)
ところで俳優さんでない人を使って映画を撮るということも、おそらく多くの人がブレッソンに学んだところがあると思います。
そして、わたしはと言うと、作っているものは全く違って見えても、全く"足もと以下"でも、これらの監督から大きな影響を受けていると思います。
ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』とロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』。貴重本なり?

今日は繰り返し見ている映画についてでした。
忙しくなるとなかなか映画通いできなくなるのですが、スパイク・ジョーンズの『INVITATION』は楽しみにしておこうと思ってます。
それではみなさま良いクリスマスとお正月をお過ごし下さいね。。。
修理や掃除に時間をさくのは私のまた一つの面なのですが、リペアについては、若い頃、商業物をデザインする仕事をしばらくした後から、欲求として芽生えた思いでもあるし、手入れは、一つの物に愛着を持って接したいという思いが少しずつ育ってきたのだと思う。
それらは元のように直すことだけでなくて、時には無作法に思いきって扱うこともある。つくる・破壊・繕う、それらはじつは変種で、"先へ進む"という同じ方向性へと向かっている。美しいものを見る・作る快美を知ってしまったものは、もはや後戻りすることは出来ず、それにこだわりおぼれ、進んでいくのではないでしょうか。
長い時間をかけた幾度もの洞察と認識の繰返しの末に、ものが出来上がっていく。たくさんの寄せ集めた認識の集積の果てに、腑に落ちて、完成する。そういう意味でアートもまたブリコラージュそのものであるとも言えると思うのです。そして、何を見て、見つけるかという、視線と視力がとても大事と思います。
ということで、他愛もないのですが今日のリペア。カバンの取手周辺。(裏を青いリボンで、根元を刺繍で補強)
日々のこともエクササイズと化しつつ?(いえヒマ人...)
仕事や生活からも学び肥やしに、と。まさにブリコラージュ人生な面はありますよね? みなさん。

もうすぐ父の命日なのですが、実家と離れて暮らしていると日頃はついつい忘れがち(ごめんなさい)なので、(今年は五年目なのでとりたてて法要というのもないし)供養も兼ねてちょっと生き死にについて考えたりもして、みるか?(と、言っても大したものではないのだけど)。
なんでも三途の川の渡し船は三人乗りで「一年のうちに同じ家から二人亡くなると、もう一人引く」なんてことを言いますが、父が亡くなってひと月後に私のいとこ(父の甥)が亡くなり、その半年程あとにいとこ甥(父の大甥)が亡くなった時には、「ひ~っ、お父さん、連れて行くのはやめたって~」と思ったものでした。まぁ、時折そんな迷信と合致して驚くこともありますが、うちはまったく霊感にうとい家系です。
そんな父は持病があったこともあり、自分なりにちゃんちゃんと準備していたようで、亡くなってから「何も困らなかった」と母が言っておりました。父は末っ子なので自分の家の墓地は前々から購入していたし、「(父が書いておいた)石塔の指示がまるで設計図みたいで、そのまま墓石屋さんに持っていったらスムーズだったわ~」と母が笑い話で皆に言っていたほど。
ところで、こうした準備は「死んだら"ご先祖様"になる」という日本人の死生観によるものなのだなと、最近になって考えてみたのです。
なにせ私たちは自由奔放で身勝手な世代でして、そういうことを今まであんまり思いつかなかったのです。
―そう、時代に"自分探し"を半ば強制されたしんどい部分もあり、自分が特別な存在であることを強いられて、オカルト雑誌やSF漫画からの影響なのか「自分の前世はどこどこの国のだれそれ」なんて時空を超えた転生物語を信じていたりする場合も? それに私自身を思うと、この道を選んだ生き方上(表面より本質と思う頑なさゆえ)仕方のない部分はあるものの、ことあるごとに通過儀礼的なものに一線を引いてしまう(もちろんそんな堅気な父とはものすごく仲が悪くて、娘にことごとく無視される気の毒な父でしたヨ・苦笑)。
だけども、死んだらとんでもないものになるのではなくて、、、この国の、この土地で、そして家の"ご先祖様"になるという昔から多くの日本人が自然に培ってきた感覚はけっこうすんなりピンとくるものだなと、思いましたわけです。
今回もなんだか自分メモワールな文になってしまいました。。。「日本人の死生観」なんてタイトルもなんなんで「ふるきをたずね」みたいな。
秋雨の夜長に―。
九月になり、気持ちだけは秋めいて(まだちょっと鎮座している残暑を警戒しつつ)、意識は部屋を出て外の気配に感覚を向けはじめます。いろいろと催しも多くなり、びゅんと出かけてゆき、それに触れれることはなんという贅沢。
9/3「ときのあとさき」mama!milk at 法然院
行ってまいりました。演奏も演出もとっても素敵。大・満・足!
9/4「スーザン・チャンチオロ展」at HINAYA 清水五条坂店
編集者の林央子さんのトークヘ。諸処にエッセンスの詰まったお話に心の中で落涙。。。
展覧会は9月末まで開催中です。
9/11「庭みたいなもの」山下残公演 at アイホール
家人の公演。高松の美術家・カミイケタクヤさんの舞台美術もかなり頑張ってます。
9/22から横浜のKAATでも始まります。
9/14「ツリー・オブ・ライフ」at MOVIX京都
親兄妹の関係の中で、家族の病は伝染する。それと闘いながら生きている人はじつに多いと思う。
それだからこの映画にうなづく。映像の美しさ、個人的には特にお母さん役の女優さんとそのファッションの美しさが好き。
ストーリーで、というのではなく、モンタージュしたプロットで見せる。
人の頭の中も概ねこんな感じかもしれない。いろいろと記憶の断片が無造作にやってくる。
この週末は「ふたりのヌーベル・ヴァーグ ゴダールとトリュフォー」を見る予定。
来週は東京〜横浜〜鎌倉へぶらり。
他、最近のこと。編集者の村松美賀子さん、小説家の福永信さんと一緒にミーティング。わたしたちの自主企画でやりたいことがある。ちょっと先になるかもしれないけど。
案内物を送るのにかこつけて、敬愛する人にいくつかふみを送る。ダンサーの吉福敦子さん、美術家の福田尚代さん、など。
吉福さんから作品資料をかりる。すばらしい。美意識共有~。福田さんとはメールでの細やかな意志のやりとり。
とある待ち時間に再読『麦ふみクーツェ』(いしいしんじさん)。数々の言葉の発する光、そして可笑しさ。じつはこの文庫本、音楽家の友人から借りっ放し。
林央子さんが語った言葉のなかから「速度から生まれる純粋なクリエイション」。
クーツェの中であった言葉「一生のうちには、ふるさとなんて気にかけず、一心になにかにとりくむ時期があってしかるべきだろう」。
それらの時期は一度は経験したけど、可能なら何度かあってもいいだろう、と思う。
丁寧なことたち、且つ、そして、又は、パンク精神にあふれたことたち。それらがこよなく好きである。
それから大きいものから小さいものまで揃っているものが好き。(なんのことか分りづらいですよね? 神は細部に宿るとしても、それは大きな視点に統合されていくということ。)
多くのものを受け止めさせてもらい、つぎは自分がギフトとして人に何を返せるか。それがいつも出発点になる。
九月のブログは筋道もなくメモ書きのようなことに。
あいそがないので先週撮った友人の手のポートレイトを。
ではまた十月に。


夜が来るのも早くなり、秋の虫の声もちらほら。。。
んんん?、、、でも!まだまだ暑いですね。。。
8月初旬は舞台公演のスタッフとしてシンガポールに行ってきました。
なぜだか向こうは日本より涼しくて、それに景気も良いためか建物の中は冷房がものすごく効いています。
劇場はドリアンの形のエスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ。

公演は「"It's just me, coughing" "Yokohama stay", Double bill / Zan Yamashita」。

照明・音響・映像チーム。みんな長袖必須の劇場生活でした。

ほとんどは劇場ひきこもりながら、空き時間でちょこまかは楽しんだり、です。
宿泊先のすぐ隣にあった美術館、シンガポール・アートミュージアムでの子供向けの展覧会「Art Garden」がとても楽しく~。
前庭にはバルーンの大きなうさぎの作品が寝っころがっていて可愛い!
(この子は夜や雨の日は空気を抜いてしまわれてるのです。)
大人向けには映像展が開催中でポンピドゥーからたくさん作品が来ていて、これも良かったです。
ミュージアムショップでぬいぐるみを入手。。。いまうちで寝っころがっています。
帰ってきたらちょうど猛暑がはじまり、ただいまヘロヘロです。
うさぎみたくただただ寝っころがりたい思いです。
私は秋が好きで、秋がほんとに待ち遠しいです。
しかしそう言えば、8月の終わりの楽しみは、ひとつありました。
吉増剛造さんファンの私なのですが、同じく吉増さん好きの友人と8月の終わりにはいつも「八月の夕暮れ、一角獣よ」の詩文の一節をメールで投げ合うのです。
じりじりして苦手な夏も、この詩に触れれば深く暮れてゆき、とっても静かな気分になれるのです。今年はどの一節を投げようかしら、と。
それではみなさんにこの詩の
いちばん最初の行と
空は一枚の兆し、澄んだ耳が立つ、静かに、響け、門のひらくとき
いちばん最後の行を
八月の終り、獣の息にちかづいてゆく、とても静かだ
おくっておきます。
(沖積社 現代詩人コレクション 吉増剛造『八月の夕暮れ、一角獣よ』)
透明な光がまぶしい季節ですね。夏は得意ではありませんが、この光を感じることにはうっとりします。
そして京都の夏はみなさんもご存知のこの厳しさ、、、私も夏がくる度に自問してしまいます。「なんで私はこんなむちゃ暑い京都にいるのでしょう?」。そうです、こんなに暑さが厳しいと、あえてここにいる理由付けをつい考えてしまうわけです。
私は暑さ寒さはさておき(というか、それはちょっとばかりガマンするとしてでも〜)、他の魅力があるのだろうと思います。それは永い時を経て続いてきた京の町の清めではないかと思います。少なくとも私にとってはそれが居心地の良い部分だと思います。ものを作る上でも暮らす上でも身の回りのフォーマットとインターフェイスというのはとても大切だと感じるからです。京での清めは季節毎の行事や町の計画にしっかりと含まれているし、ひとりひとりの意識の中にも根づいて、それが自律的に循環していると感じます。
それが私たちがこの身を置いておきたい京都の、すっきりしているようで緻密な、個人的なようで共同体的な、おしなべて深い特質かと思っています。
それでは、みなさま、夏バテにはくれぐれもお気をつけて下さい。
どうぞ、暑さに負けずすがすがしく過ごせますように。。。
(昨日ちょっと実家に帰っていました。夏の庭、ごっちゃりしてますねー。)