
盛り上がってますね、ワールドカップ。
以前からサッカーは好きだったので、やはりどうしても観てしまいます。
やらないといけない事は多々あれど、なかなか手につきません。
「ええっ、こんな時間にうちの(ボロい)TVでこのカードが観れるの!?」っていうのが
ほぼ毎日目白押しなもんで、"4年に一回だしね...うん、そうそう、とりあえず
前半だけでもね...うん、ぃよし!!"という感じで結局全部観てます。
乱暴な言い方かもしれませんが、スポーツは勝ち負けという明確な「答えがある」があるからこそ素晴らしく、
芸術はやれどもやれども明確な「答えがない」からこそ素晴らしい、と勝手に思ってます。
自分の中では非常に対極なものとして感じられるがゆえにどちらも魅力的で大好きなのです。
そんなこんなで(?)この一ヶ月の間に2回程人前で演奏する機会がありました。
ひとつは関西日仏学館でのライブ、
そしてもう一つは知人の結婚パーティでした。
結婚パーティといっても静原の自然の中、会場や料理、新婦の衣装に至るまですべて手作りで作り上げられた
とても素敵なパーティでした。
新郎新婦のお二人に縁ある多くのミュージシャンの演奏があったのですが、
その中で&ARTにも紹介されている原摩利彦さんのユニットrimaconaさんも参加しており、
rimaconaさんが新郎新婦のお二人のために作った曲にギターで参加させてもらいました。
これがまた素晴らしい曲だったのですが、弾いていてとても幸せを感じました。
放っておくと、「この曲の意義は...自分がこの音を鳴らす理由は...」などと考えて込んでしまうタチなんですが、
「二人のために、喜んでもらうために」という非常にシンプルなモチベーションがとても心地よくて、
頭がスコーンとなり、ハッとする瞬間が多々ありました。
モノをつくる動機なんてものは本当〜になんでもいいと思うんですが、
これも一つの確かなかたちだなぁと再認識した様な、思い出した様な...そんな一日でした。
そんなこんなで(?)最後に少し告知を...。
&ARTに参加させてもらってからというもの、&ARTで紹介されている今までなかなか接点が無かった
アーティストの方々とお話する機会があってとても有り難く思っています。
イベントで林勇気さんとご一緒させてもらったり、なかもと真生さん、ヤマガミユキヒロさん、原摩利彦さんと
飲みに行く事ができたり(楽しかったです、色んな意味で)。
そんななか来月の7月13日(火)、京都Cafe Independantsにておこなわれる「Night Cruising」というイベントにて、
宮永亮さん!とご一緒できる事になりました。いやぁ楽しみです。
詳しくはスケジュールに記載しておりますので良かったら覗いてみて下さい。
ではではこの辺で失礼致します。
世間はワールドカップでとても盛り上がっていますね。
先週末はUSオープン(ゴルフ)〜ウインブルドン開幕、今週末はF1がヨーロッパに戻ってのヨーロッパGPと各ジャンルでワールドクラスのイベントが目白押しですね。
日本人選手の活躍もすごい!代表が決勝トーナメント進出。USオープンでは石川選手が2日目まで2位タイであったり、私的注目はウインブルドンでの錦織選手。相手が世界ランク1位のナダル。日本人として十数年ぶりのセンターコートでのプレイ。彼も代表の本田選手なみに持ってます。
(先月ブログリレー担当をとばしてしまいました。前書きを勢い良くスポーツの話で切り抜けようとしましたが、あまりにいたたまれず...。心よりお詫び申し上げます。)
さて、(気を取り直して)本題です。
新ユニットのご紹介です。
サイセクスと平行して、弱音系インプロユニットattic planとしてもライブ中心ですが活動してきました。
以前こちらのブログでも紹介しました。soundcloudを利用したタグが貼ってあるので聴いてみて下さい。
commune disc等のレーベルからの多数作品リリースがあるドローン系ユニットcurtain of cardsこと大堀秀一さんとのラップトップディオです。
更に別で、サイセクスの考え方のランダムシーケンスを人間のタイミング置き換えたユニットbasement plan(ドラマーに荻野真也さんを起用)を始動。
自身にとって、attic planの対局にあるダイナミズムを得る事のできるユニットとして、むしろ、attic planと対になる意味もあります。
attic plan,basement planのライブでは、いつも、古舘健さんを中心としたekranに参加していただいています。
attic plan+ekran,basement plan+ekran
ビジュアル面にかぎらず、時にはLEDとモーターを組み合わせたり、リモトコントロールバルーンを使ったインタラクティブ作品でコラボレーションしてきました。
最近はbasement planライブ機会が増えていたなかで、attic planと同時にやってみることを試したく思っていました。
なかなか、機会を見つけることができなかったのですが、先月、実現する事が出来ました。
その時の映像を貼ります。ご覧くださいませ。
ゲストフィーチャーアーティストとして琴で今西玲子さんにご参加いただいています。
ユニット名をattic plan,basement plan同時にやるという事でplanとしました。
plan+ekranということでplan+e(=plane=水準)
はじめまして。京都で音楽を作っている原摩利彦です。今月からアーティストブログリレーに参加することになりました。自分のブログを持っているので、日常の出来事などはそちらに書き込むことにして、こちらではこの場をお借りして、古典文学に描かれている音を「聴く」ということをやってみようと思います。古典に描かれている情景の中から音を取り出し、鑑賞するのです。現実に今鳴っている音ではなく、遠く離れた昔に書かれた音を聴くので、想像やこれまでの読み手の経験に頼ることになるでしょう。
最初は個人的に親しみのある『更級日記』から始めたいと思います。『更級日記』は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が11世紀頃に書いたとされる回想手記です。なお、ここで使用するテキストは『新編日本古典文学全集 (26) 』藤岡忠美・犬養簾・中野幸一・石井文夫 校注・訳者 (小学館、1994)です。
回想は東国にいた少女期から始まります。かねてから物語というものに強い興味を持っていた作者は、物語を読めるように薬師仏にお祈りする日々を送っていました。作者が13歳のとき、父親の上総の介の任期が終わったため、京都へと戻ることになります。
最初の音の描写が書かれているのは下総の「いかだ」という場所でのことです。9月初旬に東国を出発し、ここで作者は怖くて眠れないほどの雨に遭います(「庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、おそろしくて寝も寝られず」p.280)。このように描かれている音を聴いていこうと思います。
今回は東国から京都までの道中の前半から2つの印象的な音風景を聴いてみたいと思います。
9月17日の夜は黒戸の浜に泊まり、とても美しい夜となります。白砂には松林が生え、月明かりの下で人々は歌を詠み、作者も心の中で歌をつぶやきます(「その夜は、くろとの浜といふ所にとまる。かたつ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじう明きに、風の音もいみじう心ぼそし。人々をかしがりて歌詠みなどするに----------まどろまじ今宵ならではいつか見むくろとの浜の秋の夜の月」p.281)。
心細く感じられる風の音に、人々の歌を詠む声。この場面の音をどのように想像されるでしょうか。風の音と人々の歌を詠む声が重なっていますが、作者が心の中で歌をつぶやく瞬間には、おそらく人々の声はミュート(消音)されている、もしくは遠くの方にあるように僕には聴こえます。
ここで意図的に耳の位置をかえてみるとまた面白い経験が得られるように思えます。この場面を黒戸の浜を見渡せるような位置で、聴いてみるのです。すると今回は、人々の声と風の音との重なり方がまた違うように想像できると思います。もしかするとこちらの方が風の音はより心細く聴こえるかもしれません。読み手によって想像する情景や音は様々だと思いますが、最初に感じた情景を視点や耳の位置をかえてみることで、また違った情感が得られるように思います。
さて2つ目は足柄山(あしがらやま)で出会った遊女の場面です。武蔵の国を過ぎて、相模の国に入りますが、その道中の足柄山という所では暗くて不気味な道が4、5日間にわたって続きます。その麓の宿での、月も出ない暗い夜のこと、ふとどこからともなく3人の遊女があらわれます。年はそれぞれ50歳、20歳、そして14、5歳です。髪は長く、色白の遊女たちはとても美しい声で歌を歌います(「声すべて似るものなく、空にすみのぼりてめでたく歌をうたふ。」p.288)。ある人が西の遊女はこんなに上手には歌えないだろうと言うと、機転を利かせて今様風に歌います(「人々もて興ずつに、「西国の遊女はえかからじ」などいふを聞きて、「難波辺りにくらぶれば」とめでたくうたひたり。」p.288)。そして真っ暗な山の中に遊女は帰っていき、人々は別れを惜しんで泣きます。この夜のことはとても印象深く作者の記憶に残ります(「見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなくうたひて、さばかりおそろしげなる山中にたちて行くを、人々あかず思ひてみな泣くを、幼き心地には、ましてこのやどりをたたむことさへあかずおぼゆ。」(p.288))
月も出ない真っ暗な夜で何だか不安な気持ちで、灯火の明かりが届くくらいの作者の空間はやや縮こまったものではなかったでしょうか。そこに突如として3人の遊女が現れ、美しい歌声で歌う。この遊女の歌声が山に響き渡ることで、これまでの小さな空間がふっと空に抜けるように僕は感じます。音(=歌声)によって、まさに新しい空間が立ち上がる瞬間です。どこからともなく遊女があらわれ、歌い、また真っ暗な山の中へと帰って行く。全体でどのくらいの時間であったかという記述はありません。美しい歌の印象、その響きの印象が先立ち、その時間もいつもとは違う「時間」となっていたことでしょう。
他にもたくさんの音風景があるのですが、今回は黒戸の浜と足柄山の2つの印象的な場面を取り上げました。他の魅力的なところとしては、霧が立ちこめた出発の際、車に乗り込もうとする作者がふと家の方を振り返ってみると、よくお祈りをしていた薬師仏の姿が目に入り、人知れず泣いてしまう場面。また、作者の乳母の所へ、兄に連れられて見舞いに行き、粗末な小屋で乳母が作者を撫でて泣く(「めづらしと思ひてかき撫でつつ、うち泣くを、〜」p.282)、月明かりの下の寂しい、静かな場面などがあります。
読む人によって取り上げる音の風景は様々でしょうし、またその聴こえ方も異なってくると思います。僕の主観的な聴き方となってしまいますが、このような形でしばらくは音を聴いて行きたいと思います。
原 摩利彦
いや、こうブログなんぞ認(したため)てる場合ではないのですよ、あーた。
どうも、月一の男・・・ってみんなそうか。
木内です。
今月末より、大阪の、美術館や博物館ではありませんが、ギャラリーにしてはちょっと大きめな、アートのコートでのグループ展に出品します。
詳しくは展示・イベントのコーナーでご確認下さい。
で、今は全ての出品予定作品を作り終え、搬入準備も整いました〜、と、あとは案内状、案内メール、案内ブログに案内つぶやき等宣伝と、ポートのフォリオの更新、そして座禅組んで精神統一など、しますかね・・・・。
・・・なんて、なった試しが一度もない!一度も!
普段は世を忍ぶ仮の姿、自身が「アーチストだぜ!」みたいなオーラは全て制服と指サックの中にしまい、外回りの配達作業に勤しんでる筆者なのですが、さすがに展覧会前は1週間ほど休みとって、展覧会準備にあててます。
非常勤職員とはいえ、メガ企業に勤めてますもんで、長く居てたらバイト君でも有給休暇がそれなりにいただけます。
ああ、ありがたくいただきます。
その貴重な休みは、ほとんどが「美術作家活動」の時間へと消えて行くため、「しっぽり温泉旅行」とか「豪華客船クルーズの旅」なんて行くヒマもなく、結果、37歳にして一度も日本国を出た事が無い、という人生となっております。
とはいえ、朝から夕方まで働く日々とは違い、「朝起きて作品制作、夜、筆を片付けて寝る」みたいな、「専業美術作家」気分を味わえるという意味では、この休みはまさに「夢の美術作家生活7日間無料お試しキャンペーン」みたいな感じで、毎年、年に1〜2回、このキャンペーン中に幸せを味わってる次第であります。
しかしながら大抵は展覧会直前でテンパっていて、天国と地獄を同時に味わってるような感じなんですがね(泣笑)
まあ、こうなったのも全て自分のせいです。
「美術作家になったら?」とか「君は美術作家になるべき人間なのだ!ドーン!」
なんて言われたことなど一度も無いし、勝手にやってるだけ。
勝手に始めて勝手に作って勝手に発表して勝手にテンパって、勝手にしやがれ!
♪片手に〜パステル〜心に〜花束〜 ・・・あ、これは「サムライ」か。
(ちなみに僕はパステルで描くのは保育園の授業の時くらいです。)
とは言え、そういう勝手ながらの人生をそれなりに細々キープできてるのはまあ悪くないんじゃない?
と思いつつも、「俺にもっと金と暇があったら・・」なんて普段は思ってるのですが、しかしどうしたことでしょう?
折角の「無料お試しキャンペーン」のはずが、意外とダラダラしてしまったりする自分に自己嫌悪に陥ることもしばしば、だったりします。
また、休日は結局だらけてしまって、制作時間の無いはずの仕事してる日のほうが、効率よく制作が進む、なんていうこともあります。
これは、おそらく僕はかなりダラけた駄目人間で、そこを「勤務」というものが僕を管理してくれている為、なんとか普通に生きていけてるだけなのかもしれません。
よく、エンジェルス松井やオリックスカブレラが、「DHじゃなくて、守備についてリズムを作ってバッティングに望みたい」なんてこと言ってますが、それと同じ感覚やろか?
って、「一緒にすんな!」て感じですが。
素人目には「打つだけの方が楽じゃない?エラーの心配もないし」
なんて思うのですがね。
普段「ないない」と言ってる時間ができると、逆にどう制作していいか分からなくなってしまう。
アートホリック、つうかアータホリック症候群?

「落ち陰毛拾い」(画用紙に鉛筆、2010)
そんなわけで、とりあえず、ヘヤーの掃除でもやっておきますかね〜。
今月の引用句:「定期券を持たぬ暮らしを始めれば 持たぬ人また多しと気づく」(俵万智)
・・・実際はバイクで2分のとこで働いてますので、元々定期は持ってませ〜ん。
そんな私も出品する「Art Court Frontier 2010 #8」は6月25日から。
26日にはアーティストトークあり。
筆者も喋る予定です。
上記の様な下らない内容を話すのか?それとも真面目に論ずるのか?
「この作品、いいねと君がいったから、6月26日はアート記念日!」
と、なります様に・・・。
今回ブログ中の替え歌の元歌:沢田研二「サムライ」
以前のブログで書いた、西陣のカフェに今日もいて、もう3時間くらい。
そこにある庭が、なんでもないような庭なのだけど(いや、とても良い庭なんですが)、ずっと見ていると、見えなかったものが見えてくる。それは見えないものというより、認識していなかった部分が見えてくる。
庭をただ、こういう「庭」なのねって、捉えてしまうと見えなくなるものがあるのだということが、また実感として再認識された。
「庭」という概念で庭を見ている状態があって、その「庭」という概念が消えていくまでそこにいる。
ふっと見え方が変わる。
そうすると、これまで見ていたものとは全然違う、初めて見るようなものとして、色々なものが見えてくる。
新鮮な体験として、ちょっとした驚きと共にそこにある「庭」を見ていく。もうすでにそれは庭ではなくなってるんだけど。
もっと細部の部分で思わぬところから生えている枝だったり、全体の枝と葉の入り組んだ複雑さだったり、苔の質感や色だったりが、それまでとは全然違うものとして認識されていく。
こういう風に、ふっと自分の見え方が変わることや、認識の仕方が変わる経験というのはうれしいもので、こういう経験が多いことが豊かなことなんだろうなーと思ったりする。
芸術に触れることもこういう経験の一つですしね。
そして、日が暮れてくるにつれて、徐々に光と影の関係性が変化してくる。
太陽の光が弱くなるにつれ、人工的な照明器具の光が樹々を照らして影が見えてくる。
いや、影が生まれてくるという感じの方が適切かも。
影の存在感が増してくると、いよいよ夜の時間が始まるぞという感じで、自分の違う側面が元気になってくる。
光がベースにある世界が、闇がベースにある世界になっていく。
その陰影が想像を刺激するし、世界を多様なものとして認識させてくれるような気がする。
影を好きなのは、影が情報を省いて、そのものの姿が形としてシンプルに見せてくれるから。
ある存在があって、光があって、影が生まれる。
その影という存在に妙に惹かれるものがある。
物質も光もなければ、影は存在しない。
でも、もし影が存在しないとなんて薄っぺらい世界なんだろうとおもう、ときっとおもう。
でも、歌舞伎の照明はまったく影を出さないようにわざと作ったりするんですよね。
あれ、どういう意味があるんだろう?
今度調べてみよう。
朝顔の芽がでた。
わたしがまいた朝顔の種は「宵の月」と「水月(すいげつ)」という名前だったんだけど
ふたつ出た芽のうちハテどちらが宵の月でどちらが水月なのかわからなくなってしまった。
そこは大事なとこなんだけどなー
さいきん日が長くなってきて夕暮れ時から夜にかけてがとても気持ちいい。
身体にまとわりつくぬるい空気や薄暗い夕闇の感じがいつかの記憶を鮮やかに連れて来る。
誰よりなにより身体がいちばん覚えていて、ふとした夕方の光に意識をまるごと持っていかれてしまったりする。
記憶はそうやって季節とともに私の中を循環しては少し胸をしめつけてまた空気にとけてゆく。
空気がぬるい今の時期は自分とまわりとの境界線が曖昧になり 全てがゆるやかに動き流れて何もどこにも溜まらない。
そこが、とても、好きだ。
おおげさなことはなにもないんだよな、と思う。
最近なんだか移動続きで、しばらく忘れてしまっていた感覚にまた再びスイッチが入った。
短期間で転々と移動を繰り返すとそのうち自分の身ひとつだけが際立って感じられるようになってくる。
どこかに属する、まわりの環境と自分との一体感みたいなものが薄れて
個としての存在であるというなんだかポツンとした感じになってくる。
これは自分にとって違和感の感じられない場所ならばすぐにスルリと入り込むこともできるポツンでもあって。
久しぶりに思い出したこのポツンとした感じには 何かとても親しみと懐かしさがあった。
なんだか、どこでもいいし、なんでもいい。
ただ、そのなかでどこを選ぶのか、何を選ぶのかという感覚だけは鈍らさないようにしたいなあ、など思う。
予感がゆっくりと確信にかわっていく。
あとは身体でものを考えることができれば。
先月行った鹿児島は一足先に亜熱帯だった。日差しの強い国は持つ影も濃い。
両極にあるものが隣り合って存在する感じ、そのコントラストに目がくらんで、私は目で見ることをやめた。


何日か前、地元(広島県)の友達から何件か携帯に着信があり何となくめんどくさくてその時は電話にでませんでした。
その何分か後にまた別の地元の友達から着信があり、それも何となくでませんでした。
はじめは同窓会か何かの電話だろうと思いあとでかけ直そうと思っていたのですが、頭の中でふと嫌な事を想像してしまいました。
その事を考えると何だか怖くなり、結局その日は電話しませんでした・・・。
そして次の日、ぼくが図書館で調べものをしている最中に昨日の友達からメールがありました。
おとつい、中学からの親友が亡くなりきのう通夜があったという内容でした。
昨日ふと頭の中で想像してしまった事が現実に起こっていたのです。
すぐに友達に電話しました。原因は交通事故でした。
図書館で読んでいた本も一瞬で読む気がなくなりとりあえず一人になりたくて、自転車を立ちこぎで家に帰りました。
そして部屋の中で、しばらくの間は突然の事に現実を受け入れることができなくて頭が混乱していました。しかし徐々に頭の中に彼の顔が浮かんできて、最後に新年会でしゃべったテクノについての話を思いだしていました。 気がつくと涙がでていました。
矢野くん 「はんな、最近俺テクノにハマっとるんよ。」
僕 「テクノかぁ、俺も最近聴くようになったけど、YMOとかPerfumeとかいいよねぇ〜」
矢野くん 「俺は最近は卓球ばっかり聴いとるんよ、はんなの何かオススメとかってあるん??」
僕 「メジャーなのでいえばAphex TwinとかKraftwerkかなぁ〜」
「ちなみに最近ずっと聞いとるのは今iPodに入っとるけどこのClarkって人のこの曲(Herzog)!!」
矢野くん 「へえぇ〜、どんなん??聴かして!!」
僕 「いいよ、ちょっと聴いてみんさい。」
周りの友達が騒いでいる中、このあと矢野くんはずっと僕のiPodを聴いていました。
と、すごく鮮明にこのやり取りを覚えています。
このやり取りが最後だったと思うとすごく悲しくなりました。
すると、なにやら隣人の部屋(103号室)から壁越しに動物のような鳴き声がかすかに聞こえてきました。
子犬の鳴き声の様な、あえぎ声の様な・・・。
そうです。
男女が絡み合う音です。 そのいやらしい声や音はだんだん大きくなっていきエスカレートしていきました。
死を現実に受け止めていた僕と、女をやさしく受け止める隣人。
この日、僕の住む102号室と隣人の103号室は、隣り合う「死」と「生」が壁一枚でつながっていたのです。
もちろん逆に102号室が「生」で103号室が「死」の時だってあるかもしれません。
お盆には矢野くんに会いにお墓参りに行こうと思います。
今夜の曲はClarkで 「Herzog」