アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

また締め切りをちょい過ぎましたが、書きます。


花粉症のお供にコルゲン(ジェルカプセル、即効性命!)を握りしめながら日々暮らしています。宮永です、もとい、ミヤンガです。目覚めと同時に鼻をかんでいます。ミヤンガです(詳細は&ARTにお問い合わせ下さい)


健やかな春、と言う訳にはいきませんし、ここ数週間は京都の2つの大学での非常勤の職に慣れるのに必死と言ったところ。


あと、既に書いたか記憶が定かではないのですが、この4月から「平成23年度京都市芸術文化特別奨励者」と言う身に余る肩書きを頂いて恐縮中と言ったところです。


木金と仕事なので、よし、土曜から出かけて水曜ぐらいに帰ってくるプチ撮影旅行を沢山しよう、とか言う甘い見通しを立てていたのですが(大甘)、中々そんな夢の様な制作スケジュールを構築できそうになく、曲がりなりにも教員としての責任や、肩書きの大きさに焦りも覚えたりします。


が、是が非でもこの大甘スケージュールをライフサイクルの主眼に据える、と言う野望は持ち続けていたいと思います。


震災の余波で、いや余波と言うにはあまりにも大きな波であったのですが、色々な意見や展望が飛び交い、僕自身社会に対するいろいろなアイデアが日々浮かんでは消え、無理だ、いやしかしこれしか無いだろう、と言う自問自答を繰り返します。


作品を作ると言う勤め、これが一番大きな役割である事は言うまでもない。しかし僕自身はある作家に対してその作品だけを判断材料にして評価する人間でもないし、アートを社会的な機能として捉えたい人間です。


また作品にはどうしても作家の人生観が出てくるもの。逆に言うと人生が集約している場が作品になるのだと考えます。あくまでも僕にとってではありますが、決して残滓の様なものではないです。


作品に文脈と言うものがあるのなら、それは社会/外的世界から作家自身=作品に向かう複数のベクトルであり、集約地点として作品があり、そのベクトルはその地点を通り抜けて社会の別の場所へと再び抜けていく。個人への没入ではなく。


現代社会のイメージは、情報が色々な地点でリフレクトされて、文字通り光速で移動し、人間はその速度自体をエネルギーとしている気がします。


ですが僕は、どちらかと言うと情報が個々人を貫く際の感動や痛み、つまりある情報と速度が別の次元のものや出来事に変質するときのじんわりとしたエネルギーで何かを動かせないかといつも思います。情報は体を貫いて向こう側に出て行きます。ただし別の何かを纏って。そんな場に立ち会いたいと思って作品を作ってるんじゃなかろうか、僕。なによりこの一ヶ月少々で、速度に対する疑問と言うものが凄く自分の中で強くなりました。


じんわりとした良いものを沢山纏わせられる様になりたいもんです。なので野望は持ち続ける、作家自身=作品でありその外郭としてのライフスタイルがあるなら、その理想型にも頑固でいようと決意を新たにしております。この国における新しい場所は、個人主義を一旦突き詰め突き抜けなければ強度のあるものにはならない気がします。


皆さんと同様、毎日七転八倒です。
意外に今脳内に流れているメロディはGL○Yのa boyであります。歌詞はごググりください。


では。


こんにちは。


春もそろそろ終盤でしょうか。
何か今年の春はとても桜が綺麗だった気がします。
ハチさんはたくさん花の蜜を集めれたでしょうか。


ハチさんと言えば、以前なにがしにも書いた事があるんですが、
ぶんぶんぶんハチが飛ぶの歌に「る」を挟み込んで歌うというのが昔少し流行りました。


ぶるんるぶるんるぶるんる はるちるがるとるぶる
おるいるけるのるまるわるりるにる おるはるなるがるさるいるたるよる
ぶるんるぶるんるぶるんる はるちるがるとるぶる


というものでした。


「ぶるんるぶるんる」というフレーズが非常に独特なグルーヴ感を生み出していますね。
「さるいるたるよる」が「猿がいた夜...」に聞こえたりして、
何かこう、情緒的な雰囲気さえ感じてしまいます。


あ、いや別に書くネタが無いとかそういう事じゃないんですよ...。
小学生のクリエイティビティはホント凄いといいますか。


もしこれが「る」じゃなくて「ら」だったらなんか卑猥な感じになっちゃうし、
「り」だったら何か不潔な感じになりますよね。「れ」「ろ」に至ってはもう何か訳がわかりません。
「る」が絶妙なのです!「る」、なのです!


僕はさっきから一体何を書いてるんでしょうか、すいませんごめんなさい。
こんな「る」ばっかり書いてるとゲシュタルトが崩壊しそうなのでこれくらいにしときます。


4月はとても素晴らしいイベントにいくつも出演させていただきました。
とても刺激のある共作もさせていただいたり...。
何より色々な方と話をさせてもらえる機会が多く、非常に得難い時間を過ごさせていただきました。
ほんと皆様に感謝です。


色々と動き出している事もあったりして、今頑張り時の様です。頑張ります。


最後は春らしく桜の写真でしめたいと思います。
御所を歩いていると、信じられないくらい桜吹雪が舞っていて、
息を飲む美しさに「うわぁぁぁ」と思ってすかさずカメラを構えた瞬間、
嘘みたいに桜吹雪がピタッとおさまった瞬間をとらえた写真です!


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それではこの辺りで失礼致します!

発電所の被災に伴い、おそらく今年の夏に向けて全国で大幅に電気の消費量をカットしなければならなくなりそうです。


いったい何を節約すればいいのでしょうか。


だれもいない部屋の電気は消しましょう。風呂上がりの髪の毛は自然乾燥。テレビを見ない。
野球やサッカーが好きな方には申し訳ないのですが、ナイターの廃止。プロレスも残念ですが夜はダメ。野外で昼間にやるのはOK。ディズニーランド廃止。ルミナリエ中止。花火はOK。みんな電気消した方が暗くて綺麗じゃけん。などなど、いろいろあるのですが、要するにエンターテイメントの部分に削減の余地がありそうです。


そして今年、日本人に足りなくなるであろう娯楽性をどのように対処していくべきでしょう。


もし代用できるものがあるとすれば、それはアートです。


アートは娯楽ではないとは思うのですが、日本のテレビでやってるお笑いやバラエティ番組なんかと比べると、はるかに知的で面白いものなんじゃないかな。ディズニーランドで鼻垂らしてネズミ見て喜んでいるよりもはるかに感動があるんじゃないの?
日本人がもっとアートに興味もって真剣に考える様になったらもっと文化レベル上がるんじゃない?
今まさにレベルアップのチャンスなんじゃない?


そして興味持った人がもっと作家から作品買うようになったら、作家はそのお金でもっといい作品つくれるし、もっといいもの見れるよ。


おやすみなさい。


文化レベルアップの為の習作(デジタルコラージュ)  

・文化レベルアップの為の習作1
・文化レベルアップの為の習作2
・文化レベルアップの為の習作3

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この連載(ってまあ、勝手にやっとるわけなんですが)は来るべき「木内貴志記念美術館」的なものを世界の何処かに立てるべく、準備をしているコレクションを紹介する、というものです。
始まってから3ヶ月、この国ではいろいろな事があり、そんな個人の妄想的なたわごとにはつきあってられるかい!
てなお気持ちはお察ししますが、まあ、御陰様で休載や内容変更する理由もないので、初志貫徹!
・・・って大袈裟な。


まあ、上記の様な書き出しになったのは、バタバタしてて自身がそれを忘れるとこだった、ということです。
で、なんやったっけ?
ああ、初回から紹介してるのは「宗教美術品コレクション」のコーナーでしたな。


神様と1つ飛ばして稲尾様を紹介してましたので、飛ばした「仏様」です。
仏教美術ですな。俺なりの!


では、今月の作品


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河地貢士 作「うまい仏 tasty budda」


見ての通り、スナック菓子「うまい棒」でできた仏様です。
2010年に購入した、比較的新しいコレクションです。
しかし、これがいわゆる「コマーシャルギャラリー」で購入した人生で初の作品です。たぶん。


作家の河地さんとは面識もないのですが、偶然「大阪ほんわかテレビ」で紹介されてたのを見ていて、「へ〜、面白いな〜」と思ってました。
その作家さんが大阪のstudio Jさんというギャラリーで個展されると聞いて、観に行ったところ、これがとても面白い展覧会でした。


上記の「うまい仏」だけではなく、ジェンクフードなんかを非常に面白く作品にされていて、(割れたポテトチップスを金継ぎしていたり)「ああ、やられたな〜」という感じでした。
自分はなんでこんな作品を思いつかなかったんやろ〜と思いながらプロフィール見ると、筆者と同い年の作家さんでした。
なるほど、世代的には共感するポイント、「あるある」なとこが近いから、この親近感とやられた感、だったのかもしれません。


しかも、この「うまい仏」、モデルは一目瞭然の、おそらく円空仏。
円空に関しては、木喰とともに筆者にとっても20代後半くらいから憧れの作家となった江戸時代の仏師。
そして「うまい棒」と言えば、筆者の世代が幼少期から駄菓子屋で、そして現在もコンビニ等で¥10くらいで売られている「駄菓子」。
駄菓子と仏のコラボレーション!「駄仏教美術」?


展覧会ではこの仏様が、うまい棒の全種類(たぶん、その時点で発売されてるもの)あり、一体ごとに売られてました。
うまい棒と思えばとても高い値段ですが、美術作品としてはなかなかの低価格、であります。


うう、自身は基本、「無神論者」で通ってますが、この仏様なら、毎日手を合わせてもいいかもしんない・・、ということで購入を決意しました。


しかし、「全種類、BUY!」というほど、我が準備室は資金がなく、仕方なく1つに絞る事に。
基本的には仏様の「お顔」を重視して、最後の最後まで「豚キムチ味」にするか「牛タン塩味」にするかを熟考した挙げ句、「牛タン塩味」に決めました。
豚より牛をとった次第です。


しかし、◯◯味のマニアックなセレクトといい(「オニオンサラダ味」とか。「オニオン味」ではもの足りぬというのか?)、ドラえもんのパチもんみたいなキャラといい(ここは中国のことを笑えないね)、「うまい棒」は「キングオブジャンクフード」ですな。


そして、そんなジャンクフードに仏を彫るなんて、冒涜だ!
なんて思われる方もおられませんが、かの円空氏は「木っ端にも仏が宿る」として、小さな木の破片でも仏を彫ったという話です。


それを思えば、現代では「お菓子の食べ残しにも仏が宿る」ということでしょうかね。
いや、河地さんのこの作品は、ただ単なるパロディー的なアイデアにとどまらず、むしろ円空イズムを現代にアレンジして継承してるようにも思われます。


例えれば、マルセル・デュシャンの一連の仕事に影響を受け、いろんな人が小難しく解釈して再構築し作品化したものより、「ダジャレかよっ!」てな吉村益信氏の「大ガラス」(でっかいカラスの彫刻w)のほうがデュシャンっぽくない?みたいな〜?!


もちろん、お菓子ですから。
1000年も2000年も保存できるような代物ではないかもしれませんが、そのあたりの儚さも含め「木内コレ」にはちょうどいい。
身の丈に合ったコレクションということが言えます。


ということで、出来る限り保存して、「木内貴志記念美術館別館・宗教美術館」(庭の端のイナバ物置?)に所蔵する所存であります。



ちなみにこちらはうまい仏の作り方・・・って食うんかいっ!

こんにちわ、田中です。ここ最近考えていた事を全部まとめて書いてしまいました、長いです。最後までお付き合いいただけましたら幸いです。


顕在意識の拡張について


私という一人の人間を基準に世界を考えたとき、「私は限りなく大きな世界のごく一部であり、大きな世界からの強い影響を受けている。」すごく抽象的な言い方をしましたが「限りなく大きな世界から受ける影響」について、どのような想像をされたでしょう。そこには人によって大きな差が生じるのではないかと思います。


私一人の人間を基準にして考えるとして、宇宙に存在する莫大なエネルギーは絶えず私に影響を及ぼしています。あまりに言葉が飛躍すると拒絶感を抱く人が出てくるかもしれませんから、もう少し詳しく言いますと。私たちが生息している地球は月や太陽の影響を受けています。太陽からのエネルギーが存在しなければ、そもそも生命、地球すら存在していませんし、月の存在は海の潮汐を生み出し、地球上に多種多様な生命が反映するきっかけを与えてくれました。私たちの体にも直接月の引力は影響を及ぼしています。女性の方は特に強く反応されるのではないかと思います。


また地球に絶え間なく降り注ぐ宇宙線のエネルギーは地球の気候変動に影響を及ぼしており、地球温暖化という現象が果たして人間のCO2排出が原因なのか?温暖化によってCO2が排出されているのか?疑問を投げかける研究者達もいます。温暖化とは別にしても炭素ガス排出はもちろん減らすべきだと考えますが。地球は太陽系、銀河系、さまざまな星々との物理的エネルギーのバランスによって誕生し、成立しています。


それらの星達が存在する為にはビッグバンが無ければありえませんから、私たちの存在そのものが宇宙の起源が作り出した因果の中に存在していると考えられるのではないでしょうか。いま私自身がパソコンに向かって行動している「今」はこれら宇宙の広大な相互的エネルギー関係の結果によって存在していると言えるのではないかと。


私という人間を最大として考えたとき、私の体内には私が影響を及ぼす約60兆細胞、100兆を超える常在菌が存在しています。互いに科学反応をおこし、科学物質の交換、エネルギー伝達を行いながら、日々誕生と消滅を繰り返しています。私がパソコンに向かいながら文字を打つたびに、様々な体の器官は互いに連動し情報、エネルギーを伝達し合い、コーヒーを口に含む度そこに含まれる物質は体に存在している様々な器官、細胞に運び込まれその影響を受けます。カフェインだと自律神経がビリビリと反応しているのを体感出来たりします。ゆっくりと呼吸し、それを意識する事で酸素が体を巡り活性化する肉体を感じ取る事も出来ます。細胞は水、タンパク質、脂質等の様々な分子によって構成され、それらは原子の集合体であり、さらには陽子、中性子、電子等の素粒子がそれらを形成しています。


素粒子の世界には5次元、6次元がたたみ込まれているのではないかと宇宙物理の専門家は考えているそうです。個人的には量子力学と意識の相互作用に関する説が好きです、この領域はアートにとって重要な事項だと感じていますが、まだまだ未知の世界ですね。勉強しなくてはなりません。(※量子力学と意識wiki) 


物質的な側面でのみ書きましたが、時間にも同じ事が言えるのだと思います、人を中心に考えれば100年という時間は非常に長いですが、地球や太陽にとってみれば一瞬かもしれません、一日という時間はあっと言う間に過ぎてしまいますが、菌や単細胞生物にしてみれば相当長い時間になるかもしれません。時間や空間はそれぞれ各々に相対的に存在し、それらを規定する単位は全て人間を中心にしたモノでしかないのです。地球に基底されている私たちは一定の時間を共有しているかもしれませんし、それぞれ質量によって多少時間の歪みはあるかもしれませんね。


私という体は生まれた時より地球から様々なエネルギーを吸収し、排出しやがては死んでこの世界に断片化され、どこまでも拡散していきます。私の肉体を境界として考えましたが、ミクロの世界にも、マクロの世界にも無限に続く世界の延長があり、私はその境界に過ぎないのだと度々実感します。


(※チャールズ&レイ・イームズ夫妻が制作した「Powers of Ten」をご覧下さい。視覚的情報として補完いただけるかと。)


3月11日、東北を中心に発生した東日本大震災では、知人、友人は無事、自分も特に影響はなく、計画停電等もありませんでした。ここ、京都では驚くほど平和で何事も無かったような通常の世界があります。もし京都を境界として考えれば京都では平穏無事、遠く東北という地が大変らしいという事になってしまいますし。日本という境界で考えれば未曾有の緊急事態が今、日本に襲いかかっており被災地の問題や原発の問題は依然として未解決であり由々しき事態である、と感じるのではないでしょうか。


想像する、境界を設ける範囲は意識次第で変化します、しかし前半で記述したように全ての事象は関連性の中で起きています境界など無いのです、もしあるとすれば境界を規定する私たちの意識では無いでしょうか?あれだけの大きな地震と事故、被害者の方々が今存在しているという事は、それらがやがては物質、エネルギー、情報等の伝達によって自分たちに多大な影響を及ぼすはずなのです。腕を切り落とした体を想像してもらうと伝わりやすいかもしれません。震災に関しては多くの人々が注目していますが、ゆっくりとした変化、異常に人は気付きにくいのではないでしょうか、日常的な生活の中にも非常に多くの切迫した問題を抱えていると私は感じています。僕はこの機会に全ての人々に「世界中の問題はやがては自分たちに影響を与えるし、自分たちの日々の生活は世界中に影響を与えている」とい言う事をもう一度考えてほしいと思ってます。



(※複雑系と概念化してしまった時、地続きのリアリティーが失われる危険性を孕む気がします、イメージすれば意識は繋がるはず。複雑系wiki


私たちが日常的に電気を消費している事は原発、その他エネルギー事情と関係があり、日々消費している石油燃料、精製品、は多くの国々と関係し、炭素を地下から地上へと大量に放出し、私たちが消費 廃棄している食料は世界の飢餓を生み出す要因となり、モノのように動物達の命を奪い続けている事、まだまだ問題は山積みであり、それらは時に戦争を起こし多くの命が失われる。


全ては相対的な関係の中で因果応報となる。宗教でもスピリチュアルな事を言っているわけでもなく、それらの因果関係に眼を向けてやれば必然的に人として未来に生きるべき道は見えてくるはずなのです。以前、私が太陽の写真作品を見せた際、「太陽の光は美しく言葉にならない感動がある」という自分の言葉に対し「スピリチュアルな感じはマズイですよ」と言うアーティストがいた。僕はそれこそ想像力の欠如だと思う、太陽エネルギーとそれに伴う炭素等の循環が無ければ人間は存在出来ませんし、その自然の循環に人が惹き付けられるのは当然。太陽を空にただ光る存在として言語的に、概念的にとらえてしまう行為こそマズイのではないでしょうか。自然の一部であった人間は、自然すら自分たちの一部として扱ってしまう現代社会、これは非常に危険な先行きの見えぬ人間のあり方だと思います。


この記事のタイトルを顕在意識の拡張としたのは、人々は無意識下では万象に対する影響を多大に受け行動しており、それらを再認識、自覚する意識の有り様を提案したかったからです。アートはそもそもがそういう存在であったのではないでしょうか、アーティストは無意識世界の認知を眼前に物質化、存在化する技術を有した人々だと思っています。Artが自然に対しての、人為、作為、技術という意味を語源的に有しているのはそのためだと考えます。アートは人の心と外部をつなぐ大切な役割をもっているのではないでしょうか?


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(※上記の内容と関連して載せました上図南方熊楠「事の学」もおすすめです。)


私は作品を通してこのような意識の変化に対するきっかけを作り、少しずつ世界が変われば良いなと、やや楽観的にアーティスト活動を行ってきたように感じています。ただこの度の東日本大震災とそれに伴う原発事故によって事態は緊急を要し、全ての人々がいま変化を起こすべき時だと強く感じました。現状自分に出来る事はひどく地道な活動であり、すぐに大きな変化をおこす事は出来ません、それでも作品やその他活動等を通してその一助になればと考える日々が続いています。


田中英行(Antenna)

GURAでの公演から、10日経ちました。
ご来場いただいた皆様ありがとうございました!


dotsは4月8日/9日と、このサイトで知り合った宮永くんが共同運営するアトリエ「GURA」で公演を行っていました。
本公演とは違う、実験的な作品を上演するシリーズです。


GURAには1週間ほど通いました。
4月4日から9日まで。
伏見駅からGURAまでの途中に川があって、その川岸に桜があって、ちょうど4日から9日にかけて日に日に満開へと向かっていく姿がありました。


最終日の9日はまさに満開。
次の日の10日は日曜日で天気も良く、暖かった。まさにお花見日和でした。
桜は狂ったように咲いてました。


冬を耐え、春を迎える。
身体が一番反応する季節の変化かもしれない。
春の陽気に心が浮つきながら、毎日やるべき事をしっかりとやり続ける日々。


他人の感情や言葉を受け止めすぎないようしている。
そして、自分からも言葉があまり出ないようになっている気がする。
何かに簡単にひきづられないように防御している気がして、
そうしていることも大事なことなんだと思いました。

「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように

充実した一生は幸福な死をもたらす」


またもや13日投稿という期限を守れなかった。
守れないことを守る、たゆたうヴァ・相方です。こんばんは。


冒頭のことば、わたしの好きなことばなのですが、
有名なのでご存知の方もさぞかし多いかと。
うまいこと言うなあ、だ、びんち。


この未曾有の危機にさらされている一ヶ月、自分は何が出来るのかを何度も何度も考えています。
きっと多くの人がそうだろうと思います。


アーティストとして、
人として、
何ができるのか。
何をするべきなのか。


極論を言えば、悩むぐらいだったら家財をなげうって被災された方々に尽力すればいいのかもしれません。
しかし正直なところ、そんな勇気はないのです。
その選択肢をはずした結果、今のところの結論は
「特別なことは出来ない。自分に出来ることしか出来ない。」


自分にできること。
義援金、献血(今まで献血に挑んで採血までこぎつけられたことがないのであやしいですが)


そして、想像し、創造すること。


福島の原発の事故があって、被曝しながら作業を続けている方がたくさんいる中、
私はもう原発が必要だと思う人なんて、ほとんどいなくなると思っていました。
だけど上関の工事は再開するし、原発推進派の石原は当選するし、
原発を恐いと思うことがこんなにもマイノリティな意見だとは思っていませんでした。


確かに、原発と共に生きる街の人々の経済状況を考えると複雑です。
私はその街に住んでいないから、原発なんてやめちまえ!と言えるのかもしれない。
けど、その場にいないからこそ想像できることだってある。
人まかせにしないで、それぞれが想像して考えること。


今自分は関西にいて、被災せずに生きている。
生きているから考えなくちゃいけない。
これから充実した人生を生きるために、どうすればいいのか。


それができずに亡くなったたくさんの人たちや、被災地で避難生活を余儀なくされていて思うように動けないひとたちの分も、考えなくちゃいけない。
天災はどうにもならないけど、原発は止めることができる。
原発が止まった後の街のことも、
想像して、考えて、創造する。

それはきっと、誰でもできることなんだと思います。


充実した人生だったぜ、と言って幸福な眠りにつきたいから、
私はまず想像することから始めたいと思います。


余談ですが、
自分の場合どんなに充実した一日だった、と思っても、
仰向けに寝ると必ずと言っていいほど悪夢を見るので、
大概の日が悪夢で目が覚めます。


たゆたう:「しあわせのねむり」(2007)


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