アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

ようやっとこれを言う事ができます、新年明けましておめでとうございます。


実家で大いにぬくぬくとメシを食らい、肥えて帰ってきました。


と言うご報告をしたかったのですが、なんかあまり変わっていません。相変わらずガリ勉タイプのガリ男でおります。何故でしょう、あんなに食っちゃ寝くっちゃねの日々だったのに。


先日アップさせて頂いたAMeetさんのコラムで、結構グワーっと言いたい事を出してしまった感があり、今現在はまた別の思考が熟成されて行くのを待っている様な状態なんですが、深夜のテンションで何か思いつかないかとPCに向かっているところです。
今の僕の状態だと、「さあ、確定申告の時期ですね!皆さん気張ってしっかり取り戻しましょう!」とか言ってしまいそう(もう言ってる)なのですが。。


作家にとってはこういう事もとても大切なリアリティーです。無理矢理に引き出しをこじ開けて、たまにはお金、と言う物に向かい合いながら芸術を語ってみましょうか。


お金と言うのは、ある地域における「価値の体系」ですね。価値に関する約束事でも良いです。出現当初はその原材料となる貴金属のもつ珍しさや、その輝きの美しさの「価値」がその約束事を作る大きな要因になったと思います。
珍しさ、美しさに加えて必要不可欠であると言う事も価値を生み出す事になります。その良い例が「塩」ですね。古代ローマにおいては(ざっくりローマ帝国になる以前のローマと言う意味です)俸給の支払いが塩で行われていたと言う「一説」があります。塩を意味するラテン語の"sal"が"salary"の起源であることを説明する一説です。
※ 注意して頂きたいのですが、これは飽くまでも一説です。ラテン語「sal」が英語"salary"のさらに語源である"salarium"の語源である事は事実として、それが「塩を買う為の代金」程度の表現だった可能性も提示されているようです。


ローマに時代的にも、規模的にも対応する中国王朝の漢でも、塩の専売制がとられており、その存在が価値の体系の根幹に関わる重要な物であった事が分かります。三国時代に有名な関羽も塩の生産を行う解池と言う塩湖を基盤にした一族であったとかなかったとか、詳しい話は陳舜臣の「曹操」シリーズ等をお読み下さい。


「価値」は、本来生存に関わる事であったと思います。「生きる為に不可欠な物」と、「自分がそれを手に入れるための行動」、「それを手に入れ利用して生きる自分」、と言う体系そのものですね。物だけ有って、自分がいなければ話になりませんから。そしてその「自分の行動」の部分を次第に「他人の行動」に頼るようになり、物々交換が始まる。より多くの種類の物を得る為には、交換する物を持ってより遠くに行き、そこの人と物々交換をする。しかしそれでは重すぎて不便だ、と言う事で考えだされたのがAはBと同じと言うたぐいの約束事です。


そしてその約束事を担保する為に採用されたのが、まず「生存に必要不可欠であると言う事」、次に「貴重さと言う独占欲を刺激する事」、「美しさと言う所有したい事」、と言う「物」ではない「事」への置き換えでは無かったかと思っています。本来ワンセットであった体系を別々の事柄に分解し、真ん中を述べた様な約束事に置き換えました。そしてその事に引っ張られて、前後2つの部分も変形していきました。いや、正確には変形した様な見かけになりました。不可欠な物も、自分も、時代が変わっても本質的には同じはずなのですが、不可欠な物を得るための「事」自体が不可欠に見える様な錯覚とでも言いましょうか。


後にはその約束事に、別の約束事を適用すると言う事が為され続けていますね。紙幣、為替に、現在では情報そのものが(実は)担保無しで流通すると言う約束事が出来ています。そして異なる価値体系同士がぶつかった時、個々の価値体系そのものの価値を吟味すると言う様な事態が起こってもいます。考えてみれば妙な話です。しかしそう言う妙な世界に我々は生きています。


「行動」の部分をよく見てみれば、それはむしろ面倒臭くなっている筈なのです。物にまっすぐ向かうのではなく、事を得る為にまず迂回するのですから。経済は「経世済民」の略だそうですが、現代においてはそれは「経て済ます」って事になってるんじゃないでしょうか。面白いのは、プロセスを経る事で人間の可能性が増大する様な、ここでも「見かけ」になる事です。これに関しては僕は懐疑的です。詳しくは桂枝雀の「いたりきたり」をお聞き下さい。


ここで芸術と言う存在の意味を、僕はよく考えます。一番よくすることが「生存に必要不可欠であると言う事」に関する自問自答です。
基本的に諸芸術の中での、まさに文字通りの現代美術の作品においても、「貴重さと言う独占欲を刺激する事」と言う意味で価値体系に組み込まれる事が多いように思います。「美しさと言う所有したい事」の「美しさ」に関しては、その概念そのものが時代によってある程度変遷するのですが、美術と言う以上は密接に関係しています。


「生存」に関しては、美術が未だ曖昧な回答しか出せずにいる部分だと思うのです。そしてこの部分が美術をもう一歩進める鍵になる部分だと僕は思います。同様な意見を持っておられる方は、結構多いのでは無いかとも。


さあ、そこで、と言いたいところですし、あまりに語り残した事考え残した事も多いのですが、新年第一回目からあまりに飛ばすのもどうかと思いますし、今回は助走程度にこの辺で。


引き続き考えて行く事にします。僕にとってはそんな2011年になりそうです。
本年もどうぞ皆様、宜しくお願い致します。


すっかり明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。


毎年思うんですがこれくらいの時期、振り返ってみれば正月が遥か彼方に感じます。
まだ一ヶ月も経っていないのに手の届かないところに行ってしまった様な。夢でも見ていたかの様な。
ひょっとして正月って違う次元に存在しているんじゃないか??とか思います。


正月といえば初詣、初詣といえばおみくじという訳で、
今年もおみくじひきました。2年連続で「平」でした。「平」って。
2回目ともなると慣れたもんですが、去年は勢い余って二度見しました。


何でも飛鳥時代から、幕末・明治あたりまでは「十二直」というもので吉凶を判断していたとの事で、
それでいくと平は大吉にあたるそうです。今でいくとなんなんでしょうか。
何にせよ「平」ではリアクションが取りづらいので、そろそろ「〜吉」で一喜一憂したいものです。


話変わって、dotsの桑折さんも触れられていましたが僕も雪が大好きです。
今月中頃大雪が降りましたね。夜中嬉しくなって思わず外に出かけました。御所が近いので行ってみたんですが、
月のあかりが雪の白に反射して、真夜中なのに不思議な程明るく、何とも言えない幻想的な空気感で満たされておりました。
そして雪が降っている時にしか訪れない、嘘みたいな静けさに胸がいっぱいになりました。


IMG_2241.JPG久々に真剣に滑って転びました。その余韻に浸っています。「アッハハハ、転んだなぁ...」と思っています。


IMG_2240.JPGその時視界に入った月。すっ転んだからこそみえる景色ってあるんですね! ...またお会いしましょう。


若干時期外れなおみくじネタで失礼致しました。
2011年、ポツポツと予定も決まって来ておりますのでまた追って告知などさせていただけたらと思います。


それではあらためまして本年もよろしくお願い致します。

2011年になりました。しかし、一月ももう終わりに近づいてきました。12分の1ヶ月がもうすぎようとしています。
といっても、1月2月3月あたりは時期的に寒くて朝もなかなか起きれなくなってしまいがちなのでいっそスルーしてもらってもかまわないのですが、そんな機能はありません。時間は一秒一秒正確に進んでおり、短縮することはできませんし、もしできるのであれば浦島太郎の玉手箱くらいでしょうか。それか寝ることでしょうか。寝ている間は時間を感じないように思います。寝ることによってある程度時間を操作できるのではないでしょうか。


朝早くに起き、出勤して肉体労働をし、汗びっしょりで夕方頃家にかえり、風呂に入りあがった後に酒を飲みながらネットサーフィンをし、眠気がしてまぶたが限界に達した時、ベットに倒れるように横たわりそのまま布団も掛けず寝てしまい、気づいたら電気やテレビをつけたまま朝になっていた経験はないでしょうか?


私はそれを「ワープ」、又は「ワープしちゃった。」と呼びます。


そしてそれにとても類似したもの。気絶。
気絶は何度かしたことがあるのですが、あれはそうとうヤバいです。時空を超え遥かなる宇宙の旅に出発です。
脳に一定時間血液がいかなくなり、危ないので脳が強制的に気絶させるのです。

気絶状態の時はまったく記憶が無くなります。

目が覚めるとき、目は開いているのですが真っ白で何も見えません。もちろん記憶もないのでその瞬間、自分が誰なのか、いったい何が起こったのか、その前に今の自分が人間なのか虫なのか、それとも石ころなのかパンなのか?という判断もできません。
そして少しずつ聴覚が復元し音がじわじわ聞こえてきます。その後、やっと真っ白な視界からだんだん色がついてきてぼやけていたピントも合ってきます。そしてはじめて現実の世界にもどってきます。


わたしはこれを「気絶」、又は「旅行」と呼びます。


目覚めたときに、気絶していた時の記憶をなくしているので、結果その気絶の時間の分だけ短縮できた事になります。実際は時間が経過していますが。そしてそれは言い換えれば、短縮した分だけいきなり「死」に近づいたと言う事になります。

と考えると、寝るという行為で時間感覚を失っているという状態は、「生」のありがたみを感じられる余地も無く、そして起きたらそのぶん「死」へ一歩近づいているということになります。


本来、寝るという行為は体や脳を休ませるもので、どちらかというと延命行為にあたるように思うのですが、この時間を意識できない状態になってしまう「寝る」は実際は生と死のどちらの要素もふくんでいるんですね。すごいですね。


一円も大切ですが、一秒も大切にしたいと思いました。

そういえば、このあいだレンタルビデオ屋のアダルトコーナーで胸をどきどきさせていたら、突然知り合いの方に出会ってしまいました。
新年はじめてだったのですが、とてもはずかしく、会釈だけで終わってしまい本当に申し訳なかったです。


改めまして、「新年あけましておめでとうございます。」


おやすみなさい。


最近は二ヶ月ごとに記事をあげていますが、先日の&ART忘年会、記事アップの皆勤賞があるならもう少しがんばれば良かったと思っています。
そう思っていたら年が明けて三ヶ月ぶりです。
 
 
101125_miyajimatatsuo_14.jpg
 
宮島達男
Warp Time with Warp Self
SCAI THE BATHHOUSE
撮影日:11月25日


鏡面上にLEDのデジタルカウンターが等間隔に配置され、それぞれタイミングが異なるカウントを続ける。また鏡面の所々が凹面にへこんでおり、空間と見つめる鑑賞者が歪んで映りこむ。
 
宮島さんの作品を最初に観たのは都現美の常設展示室、最後の部屋の作品だったと思う。壁一面にLEDのカウンターが明滅する、代表作。「現代美術」なんて全く知らなかったけど、作品のシンプルな構造と意味の深さとそして美しさと、こんな作品があるのかと、当時の田舎者の目にとても印象に残っていた。以降、視覚以上に、観て考える美術の楽しさを覚えたと思う。
 
最近はデジタルカメラでの撮影が多くフィルムで撮る機会は減ってしまった。フィルム撮影では適正露出を押さえる為に複数カットを撮影する必要があったが、デジタル撮影では大抵、後処理でなんとかなるので厳密なその作業もなくなっていた。宮島さんの作品は光源自体が作品なので、自然、光源と照らされた空間とでは輝度に随分な差がある。普通に撮れば過剰な光で情報が消える白飛びか、情報を記録出来ない黒潰れか、のどちらかになるわけだ。それは困る。また、光のぼやっとした表情を見た目に近く記録して下さい、ともリクエストされた。
 
露出の異なるカットをかなりの枚数撮り、現像段階で1枚1枚を厳密に検証する。データに無茶をさせてみると、今まできれいに撮れてなんとかなっていると思っていたものでも、実は針の穴を通すような素子とレンズの描写がある事がわかった。特に光源とその周辺の光の表情。全体の光量は同じ様に調整出来ても、最も見た目に近い表情は限定された状態でしか再現出来なかった。デジタルのアバウトさも仕事には便利だけど(いや、ちゃんとやっていますよ)、これは今までの認識を改めさせてもらった。難度の高い撮影はしばしば物心ともにクロックアップを誘発してくれる。
 
この仕事では基本的には、見た目の再現、を心がけている。しかし写真のリアリティと目のそれにはギャップがあり必ずしも一致しない。二次元に変換するんだし、データ上には光源も作れない。そもそも不可能なんだけど、それでもその再現の微妙なバランスを探っていく訳だ。データや数値の厳密さと共に、構図、光、影、物質感、など画面を構成する諸処の要素を調整し、作品や意味に出来るだけ近い状態で記録する。作品次第では荒い画像が正答かもしれない。普通に撮る事が出来ればばいいのだけど、アバウトで難しいもんだ。
 
 
 
12月も怒濤だったが、きっちり整理していないのと、未発表の案件と、その他に取り立てて共有出来そうな話題もないのと、で記事は見送り。取材した八木良太君の話が面白く示唆に富む。近日アーティスト紹介で公開の予定。

 
昨年の制作のまとめ。いずれも友人達とのグループ展。
 
六甲ミーツアート 2010芸術散歩

 
※上記リンク先にて配布していた作品冊子PDFを無料でダウンロードできます。
 
ioriten_sasshi.jpg
 
_DSC9233.jpg 
  
 
六甲ミーツアートでは、持ち帰り可能な、登山と枝を使ったワークショップの記録冊子と、誰でも使用可能な杖置き場を作品とした。杖置き場は会期終了後もそのまま高山植物園に設置し、後は皆さんが自由に使える様になっている、はずだ。
昨年は、ろくに回る事が出来なかったが各地方都市でのアートイベントが盛況だった。雑な感想にしかならないけど、たとえばアートで村/街おこし、観光/代用としてアートが利用されたように思う。制作時にはそんな状況を把握していなかったが、各人意見も割れはしたものの、作品は作っても、アートで観光地の活性化を目指したり、そこに作品がございますぜ、という体のものとは、作り手としては終始懐疑的に取り組んだ。場所となんらかの繋りを脅迫的に持ち、それが作品の存在担保になるものの多い事は明白だったので、出来れば回避したくもあった。わざわざ僕らが作るようなもんでもないからだ。
きわめて個人の勝手な趣味体験、この場合、山登りをどうやって第三者に伝える事ができるか。無理矢理な価値転換に、僕らが美術/芸術/アートと呼ぶものの大事な事が隠れているんじゃなかろうか。枝を拾いそれが杖に変わり、そしてそれがどの時点で作品として交換されるのか。そんな試み。インターフェイスの課題は有ったものの、実際に使用されまた施設の一部として終了後も採用され残されたのは望外だった。
 
 
表恒匡・中村裕太
「裏山とタイル」
gallery 揺

 
※上記リンク先、ギャラリー揺の三橋登美栄さんにまとめていただいております。  
  
urayamatotairu_n_09.jpg
 
_DSC7091.jpg
 
写真の内部からでは自己検証出来ないので、できれば外部にシフトしていきたい。
 
 
 
新年1月。
撮影はぼちぼちと始め、これから2月3月とまた忙しくなる。しばしの休憩。
正月帰省とは別に、所用で広島市に行った。広島県生まれだが、市内から100km離れたど田舎が故郷なのであまりなじみは無い。現美のサイモン・スターリングは展示替えの最中で観れなかったが、久しぶりに平和公園を散策してきた。公園と建築、各モニュメントの静謐な空気と、原爆ドームの佇まいとが懐かしくもあったが、青空の背景と午前の横から建物のエッジをさす光と、なぜか今までそうは思えなかったが、ドームがとても美しく見えた。どこから見ても大変に美しい。
 
子供の頃は大きく怖い建物だと思い、20代ではイメージよりも小さく感じ、見る度に拍子抜けした覚えがある。30代になった今は印象よりも幾分巨大で、また細部に渡り異常な解像度を持つ建物の様にも思える。何より本当に美しい。被爆者の孫ではあるが、怒りや悲しみが常にある訳でもない。戦争や被爆の話を聞きたい時には祖父はこの世におらず(もっとも、話したくもない事ばかりだろうが)、もやもやと感情を持て余すばかりである。
そういえば二度、被爆した大変な人がいたんだよと、初めて平和公園に来た妻に話していたが、その折に件のBBCのバラエティである。放送も見ていないのでなんとも言い難いが、イギリス人が笑ったであろう事と僕が美しいと思った事と、手を合わす違いこそあれ、それはそれで良い気もする。数年前の蔡國強もチンポムも。
目の前で馬鹿にされたら殴るけど、問題はそんな事じゃないと思う。
美しいと思ったドームだけど、写真に撮る気にはならなかった。
 
 
今年も精進します。

今月の引用句:
「勧君金屈巵 満酌不須辞 花發多風雨 人生足別離」(于武陵)


何?のっけから漢詩ですか?
というわけで、2011年既に明けてます。木内です。
本年もよろぴくお願いします。


ちなみに、上記の漢詩には素敵な日本語訳があります。


「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」(訳:井伏鱒二)


僕も詳しいことは知らないのですが、後半の2行はよくいろんな方が引用されてて、聞いたことがあります。
「なんや?俺の酒が飲めんのか?!そんなら嵐を起こすぞコラァ!くたばれ!!」
てな、「とても面倒くさい花見での先輩にからまれた時」みたいな解釈・・はたぶん間違ってると思いますが。


そう、「サヨナラだけが人生さ!」
というわけで、本年最初のブログが、さよならの挨拶となってしまいました。


いや、まあ今回をもって僕の&ARTブログリレーを、最終回とさせてもらおうかと・・・
「辞めないでくれよー!」(長島茂雄引退のVTRで必ず聴こえる観客の叫び風に)


私は、僕は、俺は、小生は、我が輩は・・・
・・・朕は、ブログが流行る以前から、タレントさんや文化人が「余技」として書かれる雑誌や新聞のコラムにある種の憧れを持っていました。
や、現代美術作家では飯が食えぬな・・なんて思い始めた時、じゃ、副業で学校の先生以外の何かといえば?
と考えた時になんとなく「コラム書くとか、どうなんやろ?」なんて思ってたワケです。


ま、実際は大手のメディアにコラム書く方々というのは、大抵「本業」の方もイケてる方々なので、その「食えぬからコラム」という考え自体がそもそも間違ってるんですけども。


ただ、その「コラムニスト憧れ」だけが独り歩きし、昔は知り合いのフリーペーパーでコラム書かせてもらってたりしたのですが、さぞかし読者は「お前、誰やねん?!」と思われてたことでしょう。
その後、インディーズのフリーペーパーの多くはおとなしくなってきて、そしてブログの台頭。
自身でもブログを書き始め、昨年にはこの&ARTブログリレーに参加。
世の多くの人にとって、本当にどうでもいい話をあーだこーだと書き連ねてきました。


振り返ってみれば、フリーペーパーの時は、当然フリー(¥0)でギャラも¥0・・だったのですが、・・・って、あ、今も基本は¥0か・・・。
残念ながら、書けども書けども¥もドルも何も入らず、現在に至ります。
だから、当初の「なんとなく副業」てな妄想はとっくに破綻してるのですが、しかし、辞める気もせずにだらだらと書いてるという感じです。


・・・う〜ん、こりゃ「本業」と同じやわ。ま、「本業」に比べりゃ、赤字が無いですが。


ま、美術作家だけじゃなく、ライター業というのも甘くないわけで、そうそう簡単に食えたもんじゃありません。
そりゃ、どういうジャンルでも同じ。
特に「華のある」感じの世界ほど、そういう落差が凄い、という気がします。


そんな中、この「ブログリレー」は〆切と月1回、という約束もあり、また、色んなアーティストと並んでブログが載る、ということもあって、
「いや、僕はいつも通り。普段通りに書いてるだけですよ〜♪(おいしい紅茶入れながら)」
みたいなフリしつつ、実際は気合い入りまくり!でした。
ギャラはなくても、なんとなく「コラムニスト」気分を楽しんでたのですな。
「ああ、原稿締め切りや〜〜!(でかい声で)」みたいな。


さらには、同じブログリレーの先輩作家さんに、「ドローイング付いててお得やね」的に言っていただいたので、持ち前のサービス精神に火が付き、「毎月何かビジュアル作品を添える」という条件を自分に課してしまいました。
また、最初に「今月の引用句」なるもの書いてしまったのも、自身の首をしめてしまってました。
いや、普段そんなに文学などに親しんではいないのですよ。
だから、毎月原稿書き終わった後に、「なんかこれに相応しい短歌や俳句はないかいな〜」と必死でネット検索してたわけです。


・・・で、すいません。
「私はもう疲れました・・・。」(金八先生に荒谷二中の米倉先生が宛てた手紙風に)


まあ、ギャラのある「仕事」じゃないし、ブログリレーも強制ではないので、書かないでも何も罪は問われないし、実際忙しいときはそんなことしてる場合でもないのですが、何となく「売れっ子の人はどんな状況でもしっかりやってはるはずや!」的な、ようわからん理論で自身も「トンズラ」だけはすまいと思い、「とりあえずは1年はちゃんと続けよう」と思ってました。


そして、このブログがアップされれば、その自身の約束の「1年」が果たせたというわけです。


いや、しかし。
基本的には楽しかったです。
こういう場で、普段見てもらえないような方々に自身の駄文を披露させてもらい、特に何の検閲もなく任せて下さった&ARTさんにも大変感謝しております。


ということで、ここらでリレーのバトンを置かせていただきます。
「私はこの度、ブログリレーの走者から外れますが、我が&ARTは永遠に不滅ですっ!」


それでは、引き続き&ARTブログリレーをよろしくお願いします。
一年間、ありがとうございました!


yumeotinozu.jpg


ブログがまさかの夢オチ!ってのは、なし?!


・・・という感じで、最終回にしようかと思ったのですが・・・。
「きうっちゃんは〜!&ARTブログリレーを〜〜!辞めへんでぇ〜〜〜!」


ハイ、すいません。
引き続きよろしくお願いします。


とりあえず、1年リセットで、こういう感じのブログは今回で終了。
来月からはまた1年ローテで、「テーマ」を絞った感じのライトなブログにする予定です。
簡単に言うと、普通のなんでも無い感じのブログ(それはそれで何なんだ?)を目指します。


では、今年もよろしくお願いします。

今月のブログを担当します田中英行です、年明けそうそう皆様にお知らせがあります。

Antenna(アンテナ)の2011年開催「六本木アートナイト」参加が決まりました!


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詳細はWEBサイトをご覧下さい→http://www.roppongiartnight.com/

今回のブログでは六本木にAntenna(アンテナ)の作品を展開するにあたって考えた事を書こうと思います。


α:六本木の街について

何度か六本木にて現地の下見とリサーチを行い、六本木は祝祭的な場であると感じた。

日本の生活の中で、大きな商業施設は「ハレ」の役割を持っていると考えており、日常的な営み「ケ」の中に「ハレ」は組み込まれ、境界を失い存在してるように感じる。

日常からの逸脱を昔の人々は「祭り」を通じて行ってきが現代人は消費活動の一部として、買い物旅行、音楽等に触れる事で行っていると考える。

Antenna(アンテナ)が祭りやテーマパークを作品の主たる要素としているのもそのためであり、東京や六本木のような街はそれらがより肥大した、毎日が「ハレ」状態でありハレとケの逆転が起こったような場であると考える。

ただ六本木の中には普通の生活を営む、住宅街もあり。道を一筋はいるだけで都市の喧騒とは真逆の人々の生活がある「ケ」としての場も存在している。

Antenna(アンテナ)は六本木の「ケ(住宅街)」に「ハレ」の状態を起こし、「ハレ(商業施設等)」の場に「ケ」を再考できるような仕組みを作る。そしてもう一度人々の生活そのものに目が向けられるような「場」を作る事を作品プランとして構想中。


β:ジャッピーの役割

「ジャッピー」はAntenna(アンテナ)がモチーフとして多用しているオリジナルキャラクターだが、今回のアートナイトでは、六本木の街で起きている「ハレ」と「ケ」の場を繋ぐ役割をつとめる。
ジャッピーは表層と深層の関係を象徴する存在として考えており、フラットな表面性が肥大化した社会構造をシンボリックに表現した作品。
日本人を象徴する、日の丸、富士山、黄色い皮膚等の記号で覆われた着ぐるみの中は空っぽ。そこに人が入る事で機能するが表層だけではキャラクターとして機能しない、そこに見えてくる構造が重要だと考える。


γ:人が受け継ぐモノとコトについて再考

人が連綿と受け継ぐものには言語や科学で既定できる意味を超えた意味を内包していると考える。
「生」そのものが最たる例かもしれない。百年、千年以上の時を超えて受け継がれるモノやコトには人類にとって必要な情報が遺伝子のように組み込まれているいるのだと思っている。
繰り返し行われる中で形骸化した伝統的、歴史的なモチーフに新たな角度からの視点を提示し、再考し今の時代と接続されるような機会を作ることを目指している。


δ:東京について考える

東京は街の規模がとても大きく、人口や情報、お金等が集中する事で様々な物事が過剰な状態になっていると感じる。
ものすごいズピードで日々様々なものが生み出され更新される「ハレ」の状態には面白さを感じる反面、人々の欲望が渦巻く恐ろしさもある。
創世記に登場する「バベル」の世界が具現化した場のように感じる、しかしそれは都市が背負うべき宿命なのかもしれない。


japanese_05.jpegのサムネール画像


長々と書きましたが以上のような事を考えながら、Antenna(アンテナ)として作品を詰めていこうと思っています。
これからが忙しくなりそうです!気合い入れて精一杯頑張ります。


Antenna / 田中英行

2011年最初のブログということで遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。


大晦日と先週末、京都に久しぶりに大雪が降りましたね。
子どものときから雪は好きです。


先日の雪が降った夜中にマンションの窓から見た光景のこと。
街の色々な電灯で照らされた白い風景の中、見下ろすと車の通った跡が複雑な濃淡の直線を作り、その直線が何本も見えなくなるまで伸びていました。
人通りは無く、ほとんど音もなく、いつもの風景のはずが、まるでフィクションのように見えました。
雪は無言で降り続け、粛々と街の構造物の上に積もっていきます。
色と質感が統一され、形が強調された街は、その白さもあり部屋の光などの様々な光をいつもより強く反射させ、だからなのか、いつもよりここで生きている見えない人々を想像させました。
そして、道路に引かれた白の直線が延々と、どこまでも切れることなく続いて、建物もしだいに無くなり、ただただ白い濃淡のある線だけが存在するような風景を思い浮かべました。


次の日の朝は、おもしろいように道路が滑ってましたね。
道が滑るというだけで、人の身体に対する意識は変わるものです。歩き方も人ぞれぞれで奇妙でした。つま先の方を意識して歩く人もいれば、ものすごく小股で歩く人もいて、あえて滑るように歩いている人もいました。


ボクは思い切って自転車に乗りましたが、思ったより安定してました。道路との接点が小さいからでしょうか。2度ほど危なかったですが、体重を左右どちらかに移動させない限りは滑ることはありません。だけど、曲がるときはどうしてもハンドルで曲がらないといけませんので、まるで、自転車に初めて乗った人のようです。
そして、最も危なかったのは、自転車から降りようとして、足を地面に着けた瞬間でした。
なんとか踏ん張りましたが、自転車のハンドルを持ったまま滑りそうになっている姿は、なかなかおもしろい姿だったと思います。


雪の影響で困ってしまった方々も多くいらっしゃるかと思いますが、もう一度か二度ぐらい大雪が降ってほしいと個人的には思います。雪がもたらしてくれる様々な変化を、冬らしく楽しみたいものです。


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