アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

土。

宮永です。


今現在は、7/10からの児玉画廊京都の個展の準備(その日レセプションです、皆様是非来てください!)、この夏いっぱいで終わる非常勤の仕事にかかずらっております。


7/13日にはアバンギルドの&ARTイベントで知り合ったPolar MさんとのVJでコラボレーション。

などなどの詳細は展覧会、イベント情報の方に近日中にUPしますので、チェックして頂けると幸いです。あ、7/13日の事はPolar Mさんが既にUPして頂いておりますね。


『アーティストはどのように展示を計画するのか??』


と言う疑問を皆様がもし持っていらっしゃって、それにお答えするとすれば、、、

展示の方法が思い浮かばず眠れない夜を過ごしたのち、日が昇るとホームセンンターに物色に行き、なんとか財布と相談して使うものを決めたら、今度はそれを展示場所まで運ぶ算段をつけて、日程調整をする。。。その夜また悶々としたりする。


という何とも色気のない事しかお答え出来ません。ごくごく、普通です。


なので先月に引き続き、本の話を。


していいでしょうか。。。


『土の文明史 ローマ帝国、マヤ文明を滅ぼし、米国、中国を衰退させる土の話』Divid R. Montgomery著 片岡夏実訳 築地書館


本当に面白い本です。


●かいつまみにかいつまんで言うと、こんな事が書いている本です。


ある場所で農耕がはじまる。

最初はその農耕に適した『最高の耕地』で収量を上げ、それが新たな人口を養う。

人口がいったん増え始めると、それはその段階での人口を養う能力を超えて、見切り発車的に大幅に増え始める。文明が成立する。

今度はその人口をへの食料を補う為に、次善の土地へとどんどん開墾が進む。

さらに増える人口

農業に関わる人口自体も増え、養うべき人口も増える中で、農民は余っている条件の悪い傾斜地『限界耕地』にまで手を広げる。


この一連の流れの中で重要な事は、土地が開墾されて行く中で農業と言う営みが土地を浸食して行く、と言う事。


この浸食ということの意味は以下。


栽培植物が育つ為には当然土壌の肥沃さが重要で、当初出てきた最高の耕地はその土壌が豊かであり、肥沃度の持続性も割合に高い土地。


一方で限界耕地と言うのは、元来豊かな土壌であってもそれがはぎ取られ、風雨によって消失する速度が非常に速い。


何故かと言うと、それは土地に鋤が入って掘り起こされ、なおかつそこが傾斜地であるから。何となく意味が分かりますよね。


鋤が加えられた土壌は、木の根や芝等で栄養分に富んだ土がしっかりと固定され、また直接の風雨に対するバリアーとしてそれが機能している状態とは違って、非常に風に飛ばされやすく、雨に流されやすい。
耕されて柔らかくなっているので余計に外圧に弱い。おまけに傾斜地だから、力学的に水も物質も低い所へ落ちて行くので、ちょっとした雨にも風にも弱い。


大雨に流された土は少量であれば川に乗って流され、下流で堆積して再びそこを富ませる。


だけれども、限界耕地では肥沃な土が留まりにくいから、速くて数年で放棄され、良い土が流されきった後も浸食が続き、土の下の地盤にまで浸食進んで行き、下流もその土
砂埋まって耕作が出来ない土地に変わってしまう。


またその間に新たな限界耕地が切り開かれては放置されが繰り返され、結局はその文明を支える耕地がすべてこの浸食の働きによって不毛の地になり、食料生産がまかなえなくなり、政府の統率力や王権が失墜して文明は崩壊、その土地の住民の文化度は驚くほどに下がり、退行する。


文明が崩壊する、という言葉にはある種の甘美な響きがあるのは確かなんですが、そこにリアリティーをもとめて迫ってくと、そんな感情はとんでもなく非現実的な事がわかります。


お隣の北朝鮮では現実的に餓死が起こっている。多分今も。だいたい上に書いたような原因で。
餓死ってのがどれくらい悲惨なものか日本にいる僕には語る事はできませんが、中国の歴史書に飢饉の最上級を表す言葉として『人、相食む』と言う言葉があると陳舜臣は書いてます。文字通りの言葉です。そんな事が、世界のどこかで今も起こる可能性はあるのだなと思うとぞっとします。


古代ではメソポタミアで起こり、インカで起こり、アメリカでは耕作可能な土地は既に1/3浸食されているそうです。中国もほとんど開墾され尽くした土地。ハイチでは90%が浸食済みで、農業は立ち行かなくり、。


イースター島のモアイ像が立てられたのは、島の浸食が進む中で耕作可能な土地を住民が奪い合う中での集団間の権力闘争が起こり、その権力誇示の為に競って立てられたとか。でも結局島の住民は徐々に、しかし壊滅的に減少し、ヨーロッパと出会う大航海時代にはどうやって巨大な石像を運んだのかその技術は完全に忘れ去られていたらしいです。


かつては島に生えていた木々の丸太をコロとして利用したのだけど、その自体に島には丸太になるような木がほとんど生えていなかった。モアイが世界の七不思議として数えられるのは、岩だらけの島にヨーロッパ人が来たとき、そんな運搬方法が可能だった時代があったとは想像がつかなかったからだとか。


そのヨーロッパも、現在はほぼ浸食され尽くした状態だと言うのは、ちょっと本を読んでいる人なら知っていると思います。僕はヨーロッパに言ってないのでえらそうな事は言えませんが、その美しい風景と言うのは飽くまでも作り出されたもので、決して肥沃な土地では無いと言う事。


そのヨーロッパがなぜ今も存続しているかと言うと、植民地支配のおかげです。アジアや南洋の島々で大規模な、限界耕地まで耕し尽くすプランテーションを持ったおかげで食料不足を補ってきたから。
また、化学肥料で強制的に栄養を補う事で、近世の発達もあったようです。今ヨーロッパが食料自給率の向上に向かっているのは、さすがにそんな歴史から学ぶ所があったのだと思う。


以上が大体の内容と私見。


●もう一つ、この本で目から鱗が落ちた話。


耕す、と言う事について。
『農』の代名詞になっていて、cultureの語源ともなっていると言われるこの行為が、実は必ずしも必要な事ではない、という視点。


有史以前より、農業にはこの行為が伴っていたのだと思う。でも近年の研究では、土を深く耕し、肥料を与え、土の質を作物に合う様に改善していき、単一の作物を大量に栽培すると言う方法論に疑問が出てきたらしい。


そうではなく、生えている雑草や食物残滓(生ゴミ)を土のごく表面に鋤き込み(押し込み)、土をミミズ等の生物が自然に生成するに任せて、様々な植物を栽培する事で、農薬や化学肥料を使った栽培に決して劣らない収量が期待出来ると言う事。


様々な、生えている時期の違う作物を栽培する事は、土の表面を常に栽培植物で覆っている事が(計算すれば)可能なので、雑草の繁茂を防げるらしい。また土を掘り返さない事は土壌の酸化を防いだり、土壌自体の微生物や昆虫等の生命サイクル適正に保てるので、害虫の大量発生を防げるとの事。


もちろんこの方法は、土壌自体が最初から農業にに適さない土地にはいきなり通用するものでは無いし、土地にあった作物を慎重に選ぶ必要はある。けれどもこの事実は土地に根ざした農業をする、地域の生態系、土の生態系を理解し、それを受け入れて生きると言うコンセプトの大きな背景になると思う。話がナウシカみたいになってきましたね。


ひとつ思ったのが、何か土地を必死に耕す、と言うイメージに対して人が好意的に持っているイメージ、またそのイメージが支える現代の多くの社会やその中の現象が有りますが、今それがかなり根底から改変されつつ有るのではないか、と言う事です。
なかなかそう素直に結びつかないでも、イメージの変化と言うものは人間の行動原理を知らず知らず変えて行くと思うからです。またそうなれば良いと思う。


近代アメリカ(合衆国)の歴史に置いて、ヨーロッパでその歴史から生まれた土地の浸食を最小限に食い止めるノウハウがわかっていたにも関わらず、一つの土地が疲弊すると次の土地に移って開墾するという形が取られた事が多かったようです。そして皮肉にもその人の動きがアメリカの国土を北アメリカの東部から西部に広げる原動力になった。


なぜなら個々の農民にとって、一つの土地を保持するよりも新たな場所に移る方が、労力やコストの面ではその人々の人生の尺度においては得だったからだそうです。


そのかわり、今のアメリカの国土は疲弊しつつある。長期的に見たら一つの土地を大切に使う方が圧倒的に経済的なのに、目先の利益が優先される。


そう言う事は現在もありとあらゆる場面において、僕ら自身が陥りがちな所だと思う。
この事は、凄く根源的な問いを含んでいて、例えば僕らは孫の孫の事を愛せるか、人や国や地球の将来に責任を持つ気が有るのか、と言う事につながってくると思う。


一つの恋愛に対しても悲しいほど一喜一憂して、愛憎を繰り返す人間ですが、そういう視点をもって人間の事を考えれるのか、と自問自答する事は、先に言ったイメージの変化と言う事も含めて個々人にとって大きな意味が有るのではないかと思います。


いろいろと偏りや誤謬が有るかもしれませんが、この本に関して現時点でそういう見解を得ました。


食物が無ければ、美術やデザイン、音楽ですら、無力なものだと思います。それらは精神的な豊かさの上に乗っかっていて、希有な才能の持ち主を除きその精神的なものは物質的なものに由来する気がしてなりません。物質的な豊かさと精神的な豊かさを本当にダイレクトにつないでくれるもの食物であり、それを生み出す農業であるなら、美術やデザイン、音楽に関わる人間はそれに無知であってはならないと言うのが僕の考えです。

映像をつくっていますが、それは社会的な豊かさに依存した脆弱なものだと言う気持ちが強いです。多かれ少なかれ、特に造形芸術に関わる場合そうだと思う。

美術書や美術史だけを呼んでも芸術家になれるのか?と良く思います。
芸術が、そして芸術家個々人が曖昧で無責任な存在である以上(もちろん、多くの犠牲を払って手に入れている立場では有るのですが)、その事を素直に受け入れるか、もしくはひろい下地を見渡して新しい価値観や役割を社会の中で見いだして行くべきだと思います。


梅雨時にちょっと暑苦しいですが、そんな気持ちでこの本をお進めします。僕は先月言っていた土いじりが趣味になりそうな感じです。そんなタイミングでこの本にであったので凄く良かったと思います。父からの贈呈なんですが(笑)

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この記事へのコメント

ふくやま

2010/06/27


本についての考察、とても興味深かったです。美術書ばかり読んでていいのか、ということはわたしも疑問に思います。案外求めていることは載っていない気がして。。。また面白い本があったら紹介してくださいね。

宮永

2010/06/30


ふくやま様

ありがとうございます、何か有れば紹介させて頂きます。
知識と言うものはそれを現実に生かせて初めて意味を持ってくるものだと思うんです。アートもそのようなものかなと思います。
アートはそれ自体が確固たるものと言うよりは、いろんな価値や思いを集められるプラットホームみたいな存在なんじゃないかと思います。と言うか、そうあって欲しいと言うのが僕の願いです。

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