アーティストブログリレー

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4月の撮影

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10月にギャラリー揺(ゆらぎ)で中村裕太君と作品展を行う予定。
山から郊外、という大ざっぱな括りでそれぞれの作品と繋げる事が出来ればと思っている。で、リサーチがてら鈴鹿山系の霊仙山へ行ってきた。実際にぶらつきながら考え、作品、展示をまとめて行こうという算段。
郊外担当の中村君は廃タイル収集をきっかけに作品を構成する。
さる御方から滋賀には廃村がたくさんあるわよ、色々落ちているし拾ってきたら(私も器、拾ってきたわ!)、と窃盗幇助めいた助言をいただき(肝心の場所は随分違っていたが)、それなりのテンションになった我々は期待だけでまんまと向かった次第である。
僕の方は作品案が腑に落ちていないので思い切って主体性を放棄し、行けば何か撮るものがあるだろう場当たり精神だけで大判カメラを持って行った。挙げ句ちゃんとパッキングしておらず三脚を中村君に担がせて山道を進むという体たらくで、まことにすまん。
ことわりを一つ、廃墟探訪趣味は微塵もない、これは行ってみて再確認された。
何かあるだろうとは思っていたがあまりにリアリティがある/ない場所で、わざわざ自分が作品化することもないだろうし、そうすることもためらわれた。
写真を撮るという違和感には作品化する違和感が含まれる。第三者に見せるという前提があり必然的に考慮するのだが、そうして写真に撮る事で何かを期待する事、何かを撮り、たとえば風景の何かを自身の一部として所有できると考える傲慢さ、後ろめたさ、作品化した際にそのことに無自覚であると見られたくない小っちゃな顕示欲、普段の生活圏で朧げに思っていた事がこれでもかと発露されるような場所だった。
結局ポラだけきって帰ってきた。やはり何も無い。
同行者に荷物を持たせておいて撮らないのかよざけんなという感じかもしれないので、いや撮りますよという見栄と贖罪意識だけで撮ってみた、色々とまことにすまん。
ちなみ上のようなひねくれた考えなので、カメラを持って街でスナップとか全くしない。きれいな写真は世界中のどこかの誰かのFlickerなりで適当に探せばいいし、そもそもカメラをぶら下げて歩くのは壊れそうでいやだ。
事実は小説よりもはるかに奇で、自分の小説は全然堅固じゃない。世の中に奇な作品はたくさんある訳でどうにかシフトしたい所ではあるが。


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写真は露出計代わりのデータ。
終戦後に捨てられた村で、今では登山者向けの山小屋だけだ。周辺の国道が石ころで舗装されているとは思わなかった。
もう一つ、20〜10年前に廃村になった村もあったが生々しすぎてカメラを向ける気にまるでならなかった。撮った所で何がアートか。


毎度の仕事の事。今月は書きたいものはあるのだけど言語化に至っていないので保留します。(neutronでの稲富淳輔さんの作品など、良さが言葉になっていないし写真にも出てこない)


効率良く仕事をこなしていく事と、最短経路にて最大の効果を導きだす事は違う。経路は時に霧中、という事もあるので厄介だ。
作品を撮影するという事は記録という当然の面と、もう一つイメージに変換して流通する/されるという面がある。
どう使用するか、どう広がっていくか、後者に関してはコントロールできるものでもないが、両者に無自覚ではだめだろう。そこで作品自身の撮り方も変わってくるからだ。
光源を決め撮影角度を決め、試行錯誤するのも研鑽の立派な一部だが、一歩引くとそれすらも画一的な作業になりかねない。どうシフトしていくのか、撮るだけではどうもだめだ、と(これは先月と同じ結論ではないか。)。
ということを先日お世話になっているカメラマン/デザイナーから実地で教わりましたが、具体例として提示できるものが出来たらまたポストします。

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