
「わかる」とは
ここ最近寒い日が続いていた所為もあって体の調子が芳しくありません。
主に腰に痛いです。経験のある方は分かると思いますが、この手の痛みに寒さは大敵です。
朝起きた時の腰の感じでその日の気温がなんとなく分かってしまいます。
「やまいだれ」に「冬」と書いて「疼く」とは昔の人は上手いこと考えたものです。
暦の上ではぼちぼち春なんですが・・・
しかも腰がやられると連鎖的に他の部位にも影響が出るのがやっかいです。
「にくづき」に「要」と書いて(以下略)
さて、先日なかもと君の展示を見てきました。
知り合いの、しかも同世代の作家さんというのはいつも刺激をくれるものです。
似たような立場、視点から社会を見ているという思いがあるからかもしれませんが、
その人が現在何を考え、どのようなテーマを持ちつつ制作しているのかとても興味があります。
反転して、では私はどうか?と、いつもそんなことを考えさせられます。
今回の彼の作品も充分以上に刺激をくれました。
そしてここから昨日のなかもと君の記事とちょっとリンクしてきます。
なかもと君ばかりで申し訳ない・・・
私は常々studioを一緒に借りてる森川君から「展覧会を見なさ過ぎる」と口が酸っぱくなるくらい叱責されていまして、
まぁ森川君の見てる量が少々異常という意見は置いといて、
それでも知り合いの作家の展覧会には出来るだけ足を運ぼうと心掛けています。
実践出来ていないことも多々ありますが・・・
単に作品を鑑賞するにしても、知っている作家さんというだけで鑑賞時の心持ちが変わってきます。
それが面白い作品を作る作家さんだと尚更です。
「作品を制作した人間を知っている、又はある程度その人についての知識がある。」
というのは作品を鑑賞する上で結構重要な要素なのだと思います。
それが作品にとって良いか悪いかというのはまた別問題ですが、
少なくとも「知ってる人」の作品を前にした時には誰でも「理解しよう」とするものです。
また、例えば「ルノワール展」を見に来る人の中でルノワールを全く何も知らないという人は多分少数派です。
例えルノワールを知らなかったとしても大丈夫、説明文や年表が丁寧に説明してくれ、
多くの作品が年代順、シリーズ別に並べられているので、美術館を出る頃にはプチルノワール博士です。
正に「知ってルノ」です。(注:私が考えたわけではありません。)
要は、1点の作品と向き合っていても、実は周りにある多くの補足情報と共に作品を見ている状態です。
一つの作品を「わかろう」とすればそれだけ多くの情報が必要ということなのでしょう。
作品を「わかる」とは一体何をもって「わかった」ことになるのか、これまた難しい問題ですが・・・
美術館など広いスペースを使っての展示ならば、そういう見せ方も可能なのでしょうが、
私たちが普段展示しているようなギャラリー空間ではなかなかそうもいきません。
「作品に興味を持ってもらえる要素」を色々と考えることはある程度必要なことだとは思いますが、それでも限度があります。
なにより、私たちの制作は「既に完結しているもの」ではなく現在進行形で続けているものです。
1年後にどんな作品を作っているのか自分でも掴みきれない部分があります。
なので展示する時は「今現在考えていること、感じていること」を見せるしかなく、
それを積み重ねる中から一体何が掴めるのか(作家にとっても、鑑賞者にとっても)が重要になってきます。
だからこそ作家は作り続けることが大事ですし、出来れば鑑賞者の方にも見続けてもらいたいと願います。
それが現在アートの一つの魅力なのですが、なるほど結構ハードルの高い要求なのかもしれません。
最近はだいぶ増えてきた感はありますが、
この&ARTのように現代アートの作家を紹介する機会が増えればまた少し違ってくるのかな、
と現代アートの末席に座る身としては期待してしまいます。
これだけ書いといて結局最後はヨイショですね。
それでは
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