アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

7/12のNight Cruising(cafe independants)では、polarM村中さんと宮永亮さんが競演、

7/19のpatchware on demand(メトロ)はPsysEx糸魚さんとOtgraphさんが同じイベントに出演するなど、
7月は&ART掲載のアーティストのイベントが目白押しですね。
(木内貴志さんの参加するアートコートフロンティアもはじまっていますね。)


今月のブログリレーの内容はとても勉強になるものが多いですね。
僕は中学生以来、必要にかられた時しか、勉強というものをしたことがないので、
同年代の作家が未だに日々勉強していることを知ると、自分が生粋の劣等生であるような気がしてします。


宮永さんが展示計画、木内貴志さんが搬入準備のことを書いていましたが、
ほとんどのアーティストは仕事をしながら制作をしていますし、
そのため、特に展示前となると心身ともに酷使している人が多いのではないでしょうか。


僕は(自分の作品の中では比較的小さい)6m×6mの平置きの作品を、近くの公園で
数時間試作設置するだけで、搬入搬出で10時間以上かかるなど、非常に工数のかかる制作方法をしています。
(その際材料を運ぶため10何回、家と公園の間を往復しなければなりません)
また、マスクをしてはいるものの毎回ラッカースプレーを大量に使用するので、
シンナーで体に負担がかかることも多いですし、長期的に見ると健康によくないと思います。


こういったことを考えると、50、60と年齢を重ねていき体力を失っていったときに、
現在の方法で続けていけないような気がしています。
特に最近は「生涯取り組める方法とアイデア」を模索しているので、なおさらそういったことに危機感を感じるのかもしれません。
人に作業を任せることが苦手なので、今まではあまり人に手伝ってもらうということがなく、
外注に出すこともありませんでしたが、体力が必要な大きな作品を生涯制作したいのならば、
「作品制作の方法とアイデアを、的確に人に伝える」ということを、
実践できるようにならないといけないかもしれません。


柔軟で、更新可能な形で方法とアイデアをまとめることは、非常に時間のかかることですし、
時間に追われながらの制作ではできないことだと思います。
しかもスタッフを雇ったり、外注を使うということは、それだけ予算の出る状態に
持っていかなければいけないということですし、
その条件をクリアできる状況に自身の立場を持っていくことも取り組まなければいけない課題です。
もちろんどれだけ努力したとしても、「多くの案件で満足に予算がおりる状況」にはならないことは容易に予想できます。


ただそれでも「方法とアイデアを伝えるということ」に価値があると思うのは、老後の体力の問題だけではなく、
「アイデアスケッチと制作のメソッドさえ残しておけば、死後も新しい作品を制作できるかもしれない」という可能性を意識しているからです。
アイデアスケッチを残していても、制作される可能性は低いのですが、
自分が死んだ後も、なお新しい自分の作品が制作され続けるかもしれないというのは、
その展示がどんな規模であろうと魅力的なことです。

宮永です。


今現在は、7/10からの児玉画廊京都の個展の準備(その日レセプションです、皆様是非来てください!)、この夏いっぱいで終わる非常勤の仕事にかかずらっております。


7/13日にはアバンギルドの&ARTイベントで知り合ったPolar MさんとのVJでコラボレーション。

などなどの詳細は展覧会、イベント情報の方に近日中にUPしますので、チェックして頂けると幸いです。あ、7/13日の事はPolar Mさんが既にUPして頂いておりますね。


『アーティストはどのように展示を計画するのか??』


と言う疑問を皆様がもし持っていらっしゃって、それにお答えするとすれば、、、

展示の方法が思い浮かばず眠れない夜を過ごしたのち、日が昇るとホームセンンターに物色に行き、なんとか財布と相談して使うものを決めたら、今度はそれを展示場所まで運ぶ算段をつけて、日程調整をする。。。その夜また悶々としたりする。


という何とも色気のない事しかお答え出来ません。ごくごく、普通です。


なので先月に引き続き、本の話を。


していいでしょうか。。。


『土の文明史 ローマ帝国、マヤ文明を滅ぼし、米国、中国を衰退させる土の話』Divid R. Montgomery著 片岡夏実訳 築地書館


本当に面白い本です。


●かいつまみにかいつまんで言うと、こんな事が書いている本です。


ある場所で農耕がはじまる。

最初はその農耕に適した『最高の耕地』で収量を上げ、それが新たな人口を養う。

人口がいったん増え始めると、それはその段階での人口を養う能力を超えて、見切り発車的に大幅に増え始める。文明が成立する。

今度はその人口をへの食料を補う為に、次善の土地へとどんどん開墾が進む。

さらに増える人口

農業に関わる人口自体も増え、養うべき人口も増える中で、農民は余っている条件の悪い傾斜地『限界耕地』にまで手を広げる。


この一連の流れの中で重要な事は、土地が開墾されて行く中で農業と言う営みが土地を浸食して行く、と言う事。


この浸食ということの意味は以下。


栽培植物が育つ為には当然土壌の肥沃さが重要で、当初出てきた最高の耕地はその土壌が豊かであり、肥沃度の持続性も割合に高い土地。


一方で限界耕地と言うのは、元来豊かな土壌であってもそれがはぎ取られ、風雨によって消失する速度が非常に速い。


何故かと言うと、それは土地に鋤が入って掘り起こされ、なおかつそこが傾斜地であるから。何となく意味が分かりますよね。


鋤が加えられた土壌は、木の根や芝等で栄養分に富んだ土がしっかりと固定され、また直接の風雨に対するバリアーとしてそれが機能している状態とは違って、非常に風に飛ばされやすく、雨に流されやすい。
耕されて柔らかくなっているので余計に外圧に弱い。おまけに傾斜地だから、力学的に水も物質も低い所へ落ちて行くので、ちょっとした雨にも風にも弱い。


大雨に流された土は少量であれば川に乗って流され、下流で堆積して再びそこを富ませる。


だけれども、限界耕地では肥沃な土が留まりにくいから、速くて数年で放棄され、良い土が流されきった後も浸食が続き、土の下の地盤にまで浸食進んで行き、下流もその土
砂埋まって耕作が出来ない土地に変わってしまう。


またその間に新たな限界耕地が切り開かれては放置されが繰り返され、結局はその文明を支える耕地がすべてこの浸食の働きによって不毛の地になり、食料生産がまかなえなくなり、政府の統率力や王権が失墜して文明は崩壊、その土地の住民の文化度は驚くほどに下がり、退行する。


文明が崩壊する、という言葉にはある種の甘美な響きがあるのは確かなんですが、そこにリアリティーをもとめて迫ってくと、そんな感情はとんでもなく非現実的な事がわかります。


お隣の北朝鮮では現実的に餓死が起こっている。多分今も。だいたい上に書いたような原因で。
餓死ってのがどれくらい悲惨なものか日本にいる僕には語る事はできませんが、中国の歴史書に飢饉の最上級を表す言葉として『人、相食む』と言う言葉があると陳舜臣は書いてます。文字通りの言葉です。そんな事が、世界のどこかで今も起こる可能性はあるのだなと思うとぞっとします。


古代ではメソポタミアで起こり、インカで起こり、アメリカでは耕作可能な土地は既に1/3浸食されているそうです。中国もほとんど開墾され尽くした土地。ハイチでは90%が浸食済みで、農業は立ち行かなくり、。


イースター島のモアイ像が立てられたのは、島の浸食が進む中で耕作可能な土地を住民が奪い合う中での集団間の権力闘争が起こり、その権力誇示の為に競って立てられたとか。でも結局島の住民は徐々に、しかし壊滅的に減少し、ヨーロッパと出会う大航海時代にはどうやって巨大な石像を運んだのかその技術は完全に忘れ去られていたらしいです。


かつては島に生えていた木々の丸太をコロとして利用したのだけど、その自体に島には丸太になるような木がほとんど生えていなかった。モアイが世界の七不思議として数えられるのは、岩だらけの島にヨーロッパ人が来たとき、そんな運搬方法が可能だった時代があったとは想像がつかなかったからだとか。


そのヨーロッパも、現在はほぼ浸食され尽くした状態だと言うのは、ちょっと本を読んでいる人なら知っていると思います。僕はヨーロッパに言ってないのでえらそうな事は言えませんが、その美しい風景と言うのは飽くまでも作り出されたもので、決して肥沃な土地では無いと言う事。


そのヨーロッパがなぜ今も存続しているかと言うと、植民地支配のおかげです。アジアや南洋の島々で大規模な、限界耕地まで耕し尽くすプランテーションを持ったおかげで食料不足を補ってきたから。
また、化学肥料で強制的に栄養を補う事で、近世の発達もあったようです。今ヨーロッパが食料自給率の向上に向かっているのは、さすがにそんな歴史から学ぶ所があったのだと思う。


以上が大体の内容と私見。


●もう一つ、この本で目から鱗が落ちた話。


耕す、と言う事について。
『農』の代名詞になっていて、cultureの語源ともなっていると言われるこの行為が、実は必ずしも必要な事ではない、という視点。


有史以前より、農業にはこの行為が伴っていたのだと思う。でも近年の研究では、土を深く耕し、肥料を与え、土の質を作物に合う様に改善していき、単一の作物を大量に栽培すると言う方法論に疑問が出てきたらしい。


そうではなく、生えている雑草や食物残滓(生ゴミ)を土のごく表面に鋤き込み(押し込み)、土をミミズ等の生物が自然に生成するに任せて、様々な植物を栽培する事で、農薬や化学肥料を使った栽培に決して劣らない収量が期待出来ると言う事。


様々な、生えている時期の違う作物を栽培する事は、土の表面を常に栽培植物で覆っている事が(計算すれば)可能なので、雑草の繁茂を防げるらしい。また土を掘り返さない事は土壌の酸化を防いだり、土壌自体の微生物や昆虫等の生命サイクル適正に保てるので、害虫の大量発生を防げるとの事。


もちろんこの方法は、土壌自体が最初から農業にに適さない土地にはいきなり通用するものでは無いし、土地にあった作物を慎重に選ぶ必要はある。けれどもこの事実は土地に根ざした農業をする、地域の生態系、土の生態系を理解し、それを受け入れて生きると言うコンセプトの大きな背景になると思う。話がナウシカみたいになってきましたね。


ひとつ思ったのが、何か土地を必死に耕す、と言うイメージに対して人が好意的に持っているイメージ、またそのイメージが支える現代の多くの社会やその中の現象が有りますが、今それがかなり根底から改変されつつ有るのではないか、と言う事です。
なかなかそう素直に結びつかないでも、イメージの変化と言うものは人間の行動原理を知らず知らず変えて行くと思うからです。またそうなれば良いと思う。


近代アメリカ(合衆国)の歴史に置いて、ヨーロッパでその歴史から生まれた土地の浸食を最小限に食い止めるノウハウがわかっていたにも関わらず、一つの土地が疲弊すると次の土地に移って開墾するという形が取られた事が多かったようです。そして皮肉にもその人の動きがアメリカの国土を北アメリカの東部から西部に広げる原動力になった。


なぜなら個々の農民にとって、一つの土地を保持するよりも新たな場所に移る方が、労力やコストの面ではその人々の人生の尺度においては得だったからだそうです。


そのかわり、今のアメリカの国土は疲弊しつつある。長期的に見たら一つの土地を大切に使う方が圧倒的に経済的なのに、目先の利益が優先される。


そう言う事は現在もありとあらゆる場面において、僕ら自身が陥りがちな所だと思う。
この事は、凄く根源的な問いを含んでいて、例えば僕らは孫の孫の事を愛せるか、人や国や地球の将来に責任を持つ気が有るのか、と言う事につながってくると思う。


一つの恋愛に対しても悲しいほど一喜一憂して、愛憎を繰り返す人間ですが、そういう視点をもって人間の事を考えれるのか、と自問自答する事は、先に言ったイメージの変化と言う事も含めて個々人にとって大きな意味が有るのではないかと思います。


いろいろと偏りや誤謬が有るかもしれませんが、この本に関して現時点でそういう見解を得ました。


食物が無ければ、美術やデザイン、音楽ですら、無力なものだと思います。それらは精神的な豊かさの上に乗っかっていて、希有な才能の持ち主を除きその精神的なものは物質的なものに由来する気がしてなりません。物質的な豊かさと精神的な豊かさを本当にダイレクトにつないでくれるもの食物であり、それを生み出す農業であるなら、美術やデザイン、音楽に関わる人間はそれに無知であってはならないと言うのが僕の考えです。

映像をつくっていますが、それは社会的な豊かさに依存した脆弱なものだと言う気持ちが強いです。多かれ少なかれ、特に造形芸術に関わる場合そうだと思う。

美術書や美術史だけを呼んでも芸術家になれるのか?と良く思います。
芸術が、そして芸術家個々人が曖昧で無責任な存在である以上(もちろん、多くの犠牲を払って手に入れている立場では有るのですが)、その事を素直に受け入れるか、もしくはひろい下地を見渡して新しい価値観や役割を社会の中で見いだして行くべきだと思います。


梅雨時にちょっと暑苦しいですが、そんな気持ちでこの本をお進めします。僕は先月言っていた土いじりが趣味になりそうな感じです。そんなタイミングでこの本にであったので凄く良かったと思います。父からの贈呈なんですが(笑)

盛り上がってますね、ワールドカップ。
以前からサッカーは好きだったので、やはりどうしても観てしまいます。
やらないといけない事は多々あれど、なかなか手につきません。


「ええっ、こんな時間にうちの(ボロい)TVでこのカードが観れるの!?」っていうのが
ほぼ毎日目白押しなもんで、"4年に一回だしね...うん、そうそう、とりあえず
前半だけでもね...うん、ぃよし!!"という感じで結局全部観てます。


乱暴な言い方かもしれませんが、スポーツは勝ち負けという明確な「答えがある」があるからこそ素晴らしく、
芸術はやれどもやれども明確な「答えがない」からこそ素晴らしい、と勝手に思ってます。
自分の中では非常に対極なものとして感じられるがゆえにどちらも魅力的で大好きなのです。


そんなこんなで(?)この一ヶ月の間に2回程人前で演奏する機会がありました。


ひとつは関西日仏学館でのライブ、
そしてもう一つは知人の結婚パーティでした。
結婚パーティといっても静原の自然の中、会場や料理、新婦の衣装に至るまですべて手作りで作り上げられた
とても素敵なパーティでした。


新郎新婦のお二人に縁ある多くのミュージシャンの演奏があったのですが、
その中で&ARTにも紹介されている原摩利彦さんのユニットrimaconaさんも参加しており、
rimaconaさんが新郎新婦のお二人のために作った曲にギターで参加させてもらいました。
これがまた素晴らしい曲だったのですが、弾いていてとても幸せを感じました。
放っておくと、「この曲の意義は...自分がこの音を鳴らす理由は...」などと考えて込んでしまうタチなんですが、
「二人のために、喜んでもらうために」という非常にシンプルなモチベーションがとても心地よくて、
頭がスコーンとなり、ハッとする瞬間が多々ありました。


モノをつくる動機なんてものは本当〜になんでもいいと思うんですが、
これも一つの確かなかたちだなぁと再認識した様な、思い出した様な...そんな一日でした。


そんなこんなで(?)最後に少し告知を...。


&ARTに参加させてもらってからというもの、&ARTで紹介されている今までなかなか接点が無かった
アーティストの方々とお話する機会があってとても有り難く思っています。
イベントで林勇気さんとご一緒させてもらったり、なかもと真生さん、ヤマガミユキヒロさん、原摩利彦さんと
飲みに行く事ができたり(楽しかったです、色んな意味で)。


そんななか来月の7月13日(火)、京都Cafe Independantsにておこなわれる「Night Cruising」というイベントにて、
宮永亮さん!とご一緒できる事になりました。いやぁ楽しみです。
詳しくはスケジュールに記載しておりますので良かったら覗いてみて下さい。


ではではこの辺で失礼致します。



世間はワールドカップでとても盛り上がっていますね。
先週末はUSオープン(ゴルフ)〜ウインブルドン開幕、今週末はF1がヨーロッパに戻ってのヨーロッパGPと各ジャンルでワールドクラスのイベントが目白押しですね。
日本人選手の活躍もすごい!代表が決勝トーナメント進出。USオープンでは石川選手が2日目まで2位タイであったり、私的注目はウインブルドンでの錦織選手。相手が世界ランク1位のナダル。日本人として十数年ぶりのセンターコートでのプレイ。彼も代表の本田選手なみに持ってます。
(先月ブログリレー担当をとばしてしまいました。前書きを勢い良くスポーツの話で切り抜けようとしましたが、あまりにいたたまれず...。心よりお詫び申し上げます。)

さて、(気を取り直して)本題です。

新ユニットのご紹介です。

サイセクスと平行して、弱音系インプロユニットattic planとしてもライブ中心ですが活動してきました。
以前こちらのブログでも紹介しました。soundcloudを利用したタグが貼ってあるので聴いてみて下さい。
commune disc等のレーベルからの多数作品リリースがあるドローン系ユニットcurtain of cardsこと大堀秀一さんとのラップトップディオです。

更に別で、サイセクスの考え方のランダムシーケンスを人間のタイミング置き換えたユニットbasement plan(ドラマーに荻野真也さんを起用)を始動。
自身にとって、attic planの対局にあるダイナミズムを得る事のできるユニットとして、むしろ、attic planと対になる意味もあります。

attic plan,basement planのライブでは、いつも、古舘健さんを中心としたekranに参加していただいています。
attic plan+ekran,basement plan+ekran
ビジュアル面にかぎらず、時にはLEDとモーターを組み合わせたり、リモトコントロールバルーンを使ったインタラクティブ作品でコラボレーションしてきました。

最近はbasement planライブ機会が増えていたなかで、attic planと同時にやってみることを試したく思っていました。
なかなか、機会を見つけることができなかったのですが、先月、実現する事が出来ました。
その時の映像を貼ります。ご覧くださいませ。
ゲストフィーチャーアーティストとして琴で今西玲子さんにご参加いただいています。

ユニット名をattic plan,basement plan同時にやるという事でplanとしました。
plan+ekranということでplan+e(=plane=水準)








いや、こうブログなんぞ認(したため)てる場合ではないのですよ、あーた。


どうも、月一の男・・・ってみんなそうか。
木内です。


今月末より、大阪の、美術館や博物館ではありませんが、ギャラリーにしてはちょっと大きめな、アートのコートでのグループ展に出品します。
詳しくは展示・イベントのコーナーでご確認下さい。


で、今は全ての出品予定作品を作り終え、搬入準備も整いました〜、と、あとは案内状、案内メール、案内ブログに案内つぶやき等宣伝と、ポートのフォリオの更新、そして座禅組んで精神統一など、しますかね・・・・。


・・・なんて、なった試しが一度もない!一度も!


普段は世を忍ぶ仮の姿、自身が「アーチストだぜ!」みたいなオーラは全て制服と指サックの中にしまい、外回りの配達作業に勤しんでる筆者なのですが、さすがに展覧会前は1週間ほど休みとって、展覧会準備にあててます。


非常勤職員とはいえ、メガ企業に勤めてますもんで、長く居てたらバイト君でも有給休暇がそれなりにいただけます。
ああ、ありがたくいただきます。


その貴重な休みは、ほとんどが「美術作家活動」の時間へと消えて行くため、「しっぽり温泉旅行」とか「豪華客船クルーズの旅」なんて行くヒマもなく、結果、37歳にして一度も日本国を出た事が無い、という人生となっております。


とはいえ、朝から夕方まで働く日々とは違い、「朝起きて作品制作、夜、筆を片付けて寝る」みたいな、「専業美術作家」気分を味わえるという意味では、この休みはまさに「夢の美術作家生活7日間無料お試しキャンペーン」みたいな感じで、毎年、年に1〜2回、このキャンペーン中に幸せを味わってる次第であります。


しかしながら大抵は展覧会直前でテンパっていて、天国と地獄を同時に味わってるような感じなんですがね(泣笑)


まあ、こうなったのも全て自分のせいです。
「美術作家になったら?」とか「君は美術作家になるべき人間なのだ!ドーン!」
なんて言われたことなど一度も無いし、勝手にやってるだけ。
勝手に始めて勝手に作って勝手に発表して勝手にテンパって、勝手にしやがれ!
♪片手に〜パステル〜心に〜花束〜 ・・・あ、これは「サムライ」か。
(ちなみに僕はパステルで描くのは保育園の授業の時くらいです。)


とは言え、そういう勝手ながらの人生をそれなりに細々キープできてるのはまあ悪くないんじゃない?
と思いつつも、「俺にもっと金と暇があったら・・」なんて普段は思ってるのですが、しかしどうしたことでしょう?


折角の「無料お試しキャンペーン」のはずが、意外とダラダラしてしまったりする自分に自己嫌悪に陥ることもしばしば、だったりします。
また、休日は結局だらけてしまって、制作時間の無いはずの仕事してる日のほうが、効率よく制作が進む、なんていうこともあります。


これは、おそらく僕はかなりダラけた駄目人間で、そこを「勤務」というものが僕を管理してくれている為、なんとか普通に生きていけてるだけなのかもしれません。


よく、エンジェルス松井やオリックスカブレラが、「DHじゃなくて、守備についてリズムを作ってバッティングに望みたい」なんてこと言ってますが、それと同じ感覚やろか?
って、「一緒にすんな!」て感じですが。
素人目には「打つだけの方が楽じゃない?エラーの心配もないし」
なんて思うのですがね。


普段「ないない」と言ってる時間ができると、逆にどう制作していいか分からなくなってしまう。
アートホリック、つうかアータホリック症候群?


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「落ち陰毛拾い」(画用紙に鉛筆、2010)
そんなわけで、とりあえず、ヘヤーの掃除でもやっておきますかね〜。


今月の引用句:「定期券を持たぬ暮らしを始めれば 持たぬ人また多しと気づく」(俵万智)


・・・実際はバイクで2分のとこで働いてますので、元々定期は持ってませ〜ん。


そんな私も出品する「Art Court Frontier 2010 #8」は6月25日から。
26日にはアーティストトークあり。
筆者も喋る予定です。
上記の様な下らない内容を話すのか?それとも真面目に論ずるのか?
「この作品、いいねと君がいったから、6月26日はアート記念日!」
と、なります様に・・・。


今回ブログ中の替え歌の元歌:沢田研二「サムライ」

以前のブログで書いた、西陣のカフェに今日もいて、もう3時間くらい。
そこにある庭が、なんでもないような庭なのだけど(いや、とても良い庭なんですが)、ずっと見ていると、見えなかったものが見えてくる。それは見えないものというより、認識していなかった部分が見えてくる。
庭をただ、こういう「庭」なのねって、捉えてしまうと見えなくなるものがあるのだということが、また実感として再認識された。


「庭」という概念で庭を見ている状態があって、その「庭」という概念が消えていくまでそこにいる。
ふっと見え方が変わる。
そうすると、これまで見ていたものとは全然違う、初めて見るようなものとして、色々なものが見えてくる。
新鮮な体験として、ちょっとした驚きと共にそこにある「庭」を見ていく。もうすでにそれは庭ではなくなってるんだけど。
もっと細部の部分で思わぬところから生えている枝だったり、全体の枝と葉の入り組んだ複雑さだったり、苔の質感や色だったりが、それまでとは全然違うものとして認識されていく。


こういう風に、ふっと自分の見え方が変わることや、認識の仕方が変わる経験というのはうれしいもので、こういう経験が多いことが豊かなことなんだろうなーと思ったりする。
芸術に触れることもこういう経験の一つですしね。


そして、日が暮れてくるにつれて、徐々に光と影の関係性が変化してくる。
太陽の光が弱くなるにつれ、人工的な照明器具の光が樹々を照らして影が見えてくる。
いや、影が生まれてくるという感じの方が適切かも。
影の存在感が増してくると、いよいよ夜の時間が始まるぞという感じで、自分の違う側面が元気になってくる。
光がベースにある世界が、闇がベースにある世界になっていく。
その陰影が想像を刺激するし、世界を多様なものとして認識させてくれるような気がする。


影を好きなのは、影が情報を省いて、そのものの姿が形としてシンプルに見せてくれるから。
ある存在があって、光があって、影が生まれる。
その影という存在に妙に惹かれるものがある。
物質も光もなければ、影は存在しない。
でも、もし影が存在しないとなんて薄っぺらい世界なんだろうとおもう、ときっとおもう。


でも、歌舞伎の照明はまったく影を出さないようにわざと作ったりするんですよね。
あれ、どういう意味があるんだろう?
今度調べてみよう。

朝顔の芽がでた。
わたしがまいた朝顔の種は「宵の月」と「水月(すいげつ)」という名前だったんだけど
ふたつ出た芽のうちハテどちらが宵の月でどちらが水月なのかわからなくなってしまった。
そこは大事なとこなんだけどなー


さいきん日が長くなってきて夕暮れ時から夜にかけてがとても気持ちいい。
身体にまとわりつくぬるい空気や薄暗い夕闇の感じがいつかの記憶を鮮やかに連れて来る。
誰よりなにより身体がいちばん覚えていて、ふとした夕方の光に意識をまるごと持っていかれてしまったりする。
記憶はそうやって季節とともに私の中を循環しては少し胸をしめつけてまた空気にとけてゆく。
空気がぬるい今の時期は自分とまわりとの境界線が曖昧になり 全てがゆるやかに動き流れて何もどこにも溜まらない。
そこが、とても、好きだ。


おおげさなことはなにもないんだよな、と思う。


最近なんだか移動続きで、しばらく忘れてしまっていた感覚にまた再びスイッチが入った。
短期間で転々と移動を繰り返すとそのうち自分の身ひとつだけが際立って感じられるようになってくる。
どこかに属する、まわりの環境と自分との一体感みたいなものが薄れて
個としての存在であるというなんだかポツンとした感じになってくる。
これは自分にとって違和感の感じられない場所ならばすぐにスルリと入り込むこともできるポツンでもあって。
久しぶりに思い出したこのポツンとした感じには 何かとても親しみと懐かしさがあった。


なんだか、どこでもいいし、なんでもいい。
ただ、そのなかでどこを選ぶのか、何を選ぶのかという感覚だけは鈍らさないようにしたいなあ、など思う。


予感がゆっくりと確信にかわっていく。
あとは身体でものを考えることができれば。


先月行った鹿児島は一足先に亜熱帯だった。日差しの強い国は持つ影も濃い。
両極にあるものが隣り合って存在する感じ、そのコントラストに目がくらんで、私は目で見ることをやめた。


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