
21年度の最後の日、3月31日に横浜・BankART行われた
『誰も、何も、どんなに巧みな物語も・横浜版』の上演を終えて、
ようやく京都に戻ってきました。
現在は東京で稽古が行われているこのプロジェクトも、4/10からは
いよいよ京都に移り、4/22~25までの本番に備えることになります。
ここで横浜版の舞台写真をちょっとご紹介。



撮影はすべて神山貞次郎
BankARTは元・日本郵船株式会社の倉庫をリノベーションした
芸術文化施設。ご覧のようにコンクリート剥き出しの魅力ある空間です。
今回の作品、『誰も、何も、どんなに巧みな物語も』はフランスの作家
ジャン・ジュネの言葉をコラージュしてつくる作品ですが、
地点としては初めて、ダンサーとのコラボレーションを試みる作品となります。
出演いただくのは、山田せつ子さん。
日本のコンテンポラリーダンスの草分け的存在とも言える方で、
ダンスカンパニー枇杷系を主宰されています。
長くキャリアを積んだ方と、双方にとってまったく初めての試みを
行うということで、チャレンジングな作品であることは間違いありません。
いつもとは一味違った地点、ぜひ多くの方に見ていただきたいです。
ジャン・ジュネという人は、『女中たち』『屏風』といった名作戯曲も残している
作家ですが、今回扱うのは美術論『アルベルト・ジャコメッティの記録』、
演劇論『・・・・・・という奇妙な単語』、そして晩年パレスチナ解放運動の
傍らにいたジュネが目撃した虐殺の現場の記録『シャティーラの4時間』、と
いずれもエッセイになります。
上演を前提としていない言葉を扱うことで、ジュネの夢想した「演劇」に
迫ろうという試み。ジュネの言葉の強さ、魅力は「ジュネってだれ?」という
方にも十分お楽しみいただけるのではないかと思います。
わけても『シャティーラの4時間』は、累々たる死体の描写が続く作品。
衝撃的でありながら、不思議な静けさとユーモアがにじむ言葉です。
これを、舞台でどう表現するか。
稽古場は佳境です。2011年9月には東京での再演も予定されていますが、
京都での上演は今回限り。ぜひご来場ください。
(文責:制作・田嶋)

この週末はすっかり春らしく、まさに花見日和になりました。
新年度を迎え、気を引き締めなおさないとな、と思っておりました。
さて、田中さんに引き続きなのですが、僕も先日なかもと君の展示を見てきました。倉敷も桜はキレイに咲いており、大原美術館は多くの人でにぎわっていました。その中に存在しているなかもと君の作品は、何やら不思議な感じがしました。まあ、個人的に知り合いの作家さんの作品が、大原にある、という事自体がそうさせるのかもしれませんが、それを差し引いたとしても、あの場所にあの存在(実際に見ないとわかりにくいですが...)は、僕も刺激をいただきました。新年度のスイッチをオンにしてもらった気分です。
ところで、なかもと君のブログから引き続きの話題で、「作品の理解」というようなことについて触れられていますが、非常に興味深い話題です。
なかもと君や田中さんのおっしゃるように、「作品をわかる」というのはとても時間のかかることであり、そもそも「わかる」ということの定義自体、難しい問題です。また、「作品を知っている」ことと「作品を理解する」ことは混同されやすいようにも思います。作品についての諸々の情報を持っていることと、実際に作品をわかる、ということは似ているけれどちょっと違うようにも思います。もちろん、作品についての諸々の情報を知っていなければ、作品をわかることはできなかったりするのですが。。。結局は、田中さんの述べられているように、『作品を「わかる」とは一体何をもって「わかった」ことになるのか』という難しい問題にぶつかります。
話を大原の展示に戻すと、なかもと君の展示は、ある種の「潔さ」を感じました。鑑賞者に変にわかったような気をおこさせない、というか、「考える」こと自体を提示しているように見受けられました。その場で起こっている現象、たとえば空の色、太陽の角度、地理的条件、エトセトラ...、それらを鑑賞者自身が感じて作品を理解するというよりも、こう言ったらなかもと君に失礼かもしれませんが、鑑賞者も半分(は言い過ぎですが)作品を作っているのではないかと。なんにしても、それに近い潔さを感じました。とても気持ちの良い感じです。
おかげさまで僕自身は新年度のいいスタートが切れました。では、また!!
ここ最近寒い日が続いていた所為もあって体の調子が芳しくありません。
主に腰に痛いです。経験のある方は分かると思いますが、この手の痛みに寒さは大敵です。
朝起きた時の腰の感じでその日の気温がなんとなく分かってしまいます。
「やまいだれ」に「冬」と書いて「疼く」とは昔の人は上手いこと考えたものです。
暦の上ではぼちぼち春なんですが・・・
しかも腰がやられると連鎖的に他の部位にも影響が出るのがやっかいです。
「にくづき」に「要」と書いて(以下略)
さて、先日なかもと君の展示を見てきました。
知り合いの、しかも同世代の作家さんというのはいつも刺激をくれるものです。
似たような立場、視点から社会を見ているという思いがあるからかもしれませんが、
その人が現在何を考え、どのようなテーマを持ちつつ制作しているのかとても興味があります。
反転して、では私はどうか?と、いつもそんなことを考えさせられます。
今回の彼の作品も充分以上に刺激をくれました。
そしてここから昨日のなかもと君の記事とちょっとリンクしてきます。
なかもと君ばかりで申し訳ない・・・
私は常々studioを一緒に借りてる森川君から「展覧会を見なさ過ぎる」と口が酸っぱくなるくらい叱責されていまして、
まぁ森川君の見てる量が少々異常という意見は置いといて、
それでも知り合いの作家の展覧会には出来るだけ足を運ぼうと心掛けています。
実践出来ていないことも多々ありますが・・・
単に作品を鑑賞するにしても、知っている作家さんというだけで鑑賞時の心持ちが変わってきます。
それが面白い作品を作る作家さんだと尚更です。
「作品を制作した人間を知っている、又はある程度その人についての知識がある。」
というのは作品を鑑賞する上で結構重要な要素なのだと思います。
それが作品にとって良いか悪いかというのはまた別問題ですが、
少なくとも「知ってる人」の作品を前にした時には誰でも「理解しよう」とするものです。
また、例えば「ルノワール展」を見に来る人の中でルノワールを全く何も知らないという人は多分少数派です。
例えルノワールを知らなかったとしても大丈夫、説明文や年表が丁寧に説明してくれ、
多くの作品が年代順、シリーズ別に並べられているので、美術館を出る頃にはプチルノワール博士です。
正に「知ってルノ」です。(注:私が考えたわけではありません。)
要は、1点の作品と向き合っていても、実は周りにある多くの補足情報と共に作品を見ている状態です。
一つの作品を「わかろう」とすればそれだけ多くの情報が必要ということなのでしょう。
作品を「わかる」とは一体何をもって「わかった」ことになるのか、これまた難しい問題ですが・・・
美術館など広いスペースを使っての展示ならば、そういう見せ方も可能なのでしょうが、
私たちが普段展示しているようなギャラリー空間ではなかなかそうもいきません。
「作品に興味を持ってもらえる要素」を色々と考えることはある程度必要なことだとは思いますが、それでも限度があります。
なにより、私たちの制作は「既に完結しているもの」ではなく現在進行形で続けているものです。
1年後にどんな作品を作っているのか自分でも掴みきれない部分があります。
なので展示する時は「今現在考えていること、感じていること」を見せるしかなく、
それを積み重ねる中から一体何が掴めるのか(作家にとっても、鑑賞者にとっても)が重要になってきます。
だからこそ作家は作り続けることが大事ですし、出来れば鑑賞者の方にも見続けてもらいたいと願います。
それが現在アートの一つの魅力なのですが、なるほど結構ハードルの高い要求なのかもしれません。
最近はだいぶ増えてきた感はありますが、
この&ARTのように現代アートの作家を紹介する機会が増えればまた少し違ってくるのかな、
と現代アートの末席に座る身としては期待してしまいます。
これだけ書いといて結局最後はヨイショですね。
それでは