アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

先日、友人宅に作品を納品(?)してきました。
ずいぶん前からの約束だったのですが、やっと果たせて、ホッとしています。
依頼されてから作品をつくるというのは、作品をギャラリーに展示して、展示した作品が売れるというのとは少し異なります。
ちなみに、依頼というのは、以前展覧会のDMをつくってもらったので、そのお礼を作品で、ということでした。


で、話をもとに戻すと、依頼制作なんですが、なかなか難しい...です。作家さんによって意見は分かれるところな気もしますが、僕は基本的に依頼制作は「OK」だと思っています。もちろん、なんでもかんでもというわけではないですが。今回の場合は、作品内容は全面的に任されていたので、比較的ラクでしたが、描く前から人の手に渡ることが決まっているというのは、妙なプレッシャーを感じます。まだまだ、甘いのでしょうねぇ。
しかしそれよりも、ギャラリー等とは異なる、「生活空間」に作品を展示できるということに興味が湧きます。壁の状態をチェックして、物理的な展示方法を考え、サイズやパネル形状などを考えていきます。生活する人の動きも要素に含まれます。決して作品を鑑賞するための空間でなないのです。つまり、作品が「1番」ではなく、あくまでも「脇役」なのかもしれません。
なかなか難しいですが、「主張し過ぎず、かといって何も感じないのとは違う」という作品の状態は、ある種、僕自身が理想としているところでもあります。
さて、具体的に今回作品を展示した場所は、屋根裏部屋の階段部分の壁面という、ちょっと変わった場所でした。部屋自体は、なんか秘密基地みたいで、居心地のとてもいい空間です。
作品は、作品のみで存在するのではなく、展示される環境との関わりによって存在する、みたいなことを大学院時代の論文で書いたのですが、まさにそうだなあ、と感じました。いまいちど、このあたりを掘りさげて今後の制作につなげてもおもしろそうです。


「油絵のいい匂いがする」、というメッセージとともに素敵な写真が送られてきました。
そもそも何よりも、自分の作品を気に入ってくれる人がいることに感謝!!


hasegawa.jpg

1月2月と続いていたstudioでの展示も無事終わり、
まぁ私の展示ではなくメンバーの作品だったのですが、
色々と巻き込まれてバタバタしている内にもう3月です。
え?もう3月?です。


そんなバタバタしてる間、制作の片手間で気になってた本をいくつか読んでました。
その中で一番最近読んだのが村上春樹の「1Q84」でして、迂闊に手を出したのが悔やまれるくらい嵌ってしまいまして、
久々にハードカバーを一気読みしてしまいました。


ただものすごく気になるところで終わっていて、春樹フリークに言わせるとあの終わり方でもアリらしいですが、
私としては4月にbook3がでるから良いようなものの、あのまま終わられた日には気になり過ぎて夜も寝れずに昼寝してしまうところです。


とまぁ、冒頭でもう3月?とか書いときながら4月が待ち遠しいという話は置いといて、
その「1Q84」のことを少々。
「1Q84」はその名の通り1984年の東京を舞台として物語が進行するわけですが、文章中の街の描かれ方と、
私が当時の東京をよく知らない為に上手く想像出来ないことが相まって、現在の東京とあまり大差ない風景を思い浮かべながら読んでしまえます。
高速道路は通っているし、高層ビルも建ってます。東京は当時でも充分都会です。
ただ、あの時代に確実になかったものがあって、要所要所の描写でそれを強く意識させられます。
それは何かというとインターネットと携帯電話です。
例えば、主人公が過去の事件を調べるのに図書館に行って新聞の縮小版を読み返すシーンが出てきます。
今だったらクリック1つで終わらせてしまえる描写です。
頭の中では現在の東京とあまり変わらない風景として話が進んでしまっているだけに、
そんなシーンが出てくる度にそこだけ時間が逆流してはるか昔の話のように感じてしまいました。
街の風景や主人公の日常はリアリティを持って読めるのに、
何かを検索したり人と待ち合わせをするシーンが出てくると途端にリアルに感じれなくなってしまいます。


何故そうなってしまうのか、悶々と考えてみると、
改めてネットや携帯が私たちの感覚に与えた影響は大きかったことに気付かされます。
もはや、それらがない生活をリアルに考えられない。
しかも自分では無自覚の内にそうなってしまっている。
これはなかなかに恐いことであります。


1984年と言えば、私はもう生まれています。
ちょうど1歳くらいで、飛行機モノマネがマイブームとなっており、
必要以上に飛行機のポーズで写真を撮られていた時期にあたります。
お世辞にも飛行機に見えるとは言い難いですが、なかなかの背筋を持っていたのだと伺わせるポージングです。


そして、私がネットと携帯を手にしたのは17歳くらいだったと思うのでちょうど10年程前になります。
少なくても生まれてから10年前までの17年間は、1984年のような生活スタイルだったはずで、今もまだ以前の経験の方が長いはずにも関わらず、そう感じてしまうところにある種の恐さがあります。


まるでビッグ・ブラザーみたいだと、そんなことを考えてしまいました。


なにやら飛躍した上に悲観的な感想になってしまいましたが、本はとても面白かったので是非。

この10年間で、ここ半年間が一番体調安定しません。
常に風邪を引いているような倦怠感があります。


昨日は午前中~午後過ぎまで廃棄物の塗りなおしをし、
塗装作業が完了しました。


展示の前にはいつも展示の説明が客観的にできるように文章をまとめます。
今回の作品は演出的な要素が少ないということもあり、極度に慎重に言葉を選んでいます。


常に考えていることなのですが、
僕はほとんどの場合、作品は"自己表現"ではないと考えていますし、
最近では自分の制作しているものに対して"表現する"という言葉をなるべく使わないようにしています。


例えば僕は風景を描く画家は、自己ではなく"風景=世界"を表現していると捉えていますし、
描く過程において画家自身の自己が表出している(もしくは意図的に表出させている)ならば、
それは"自分と世界のつながり"そのものなのではないかと考えています。
特に僕の場合、風景へ直接アプローチすることが多く、それは自己表現ではなく、
世界そのものへのアプローチだと認識しています。
(そのとき風景にアプローチすることで自己を導き出す結果になったとしても、それは主体ではありません。)


また、僕の制作のプロセスとして、先ずあまり整理せずに、
物質として形にし、物質そのものについて「何を感じるか/どのように見られる可能性があるか」ということや、
制作プロセスについて「自分がこの物質をどういった立ち位置で扱っているのか」ということなどを、
長い時間をかけて分析/考察することで作品として提示すべきかどうか精査していきます。
精査すると言っても、客観的なイメージをコントロールしようとするわけではありませんし、
この場合"表現"という言葉の意味(内面的なものを、外面的、感性的形象として客観的な形あるものとして表すこと)
を考えれば、客観化は結果なので"表現する"という言葉は適切でないように思います。


廃棄物を銀色に塗装した作品は いろいろな角度から、世界のつながり
に、(言葉にできないことも含めて)実感を与えてくれるものです。
このことに関しては、まとめて何かの機会に掲載できたらと思います。


以下、廃棄物の配置図の一部です(縮小しています)。
位置の調整をしながら、繰り返し描き起こしたり、修正します。
プランは現場である程度崩しますが、内部を構想して設置するのははじめてです。


img_blog_02.jpg


このページの一番上へ