アーティストブログリレー

ARTIST BLOG RELAY

大原美術館での展示のお知らせが少しずつ出ています↓
http://www.art-inn.jp/tenrankai/002422.html


倉敷からの帰りの高速バスの中で文章を書いています。
現在ほとんど毎日作業していますが、生活の中にうまく組み込めているので、
とてもいいペースで制作できています。
2年以上前から準備していたとはいえ、卒業すぐ後くらいまでは、
たびたびラストスパートで徹夜していたので、
経験が少しずつ蓄積されてスケジューリングに生かせているのかもしれません。


また、今回は大原美術館の学芸課長の的確なサポートも
スムースに進んでいることの大きな要因だと思います。
改めてパートナーは大事だと思いました。


今日は打ち合わせが早く終わり、美術館敷地内や倉敷駅周辺を
プランニング用のスケッチと写真撮影をしながら歩き回りました。
いつもは水島臨海鉄道近辺の工業地帯などを歩くことが多いのですが、
住宅街を歩くと「日常の中での空間の在り方」が強く意識されます。
勿論京都にいてもそういった「日常空間を冷静に見つめる視点」は
常に持ちたいと思っています。


スケッチは数枚美術館に展示する予定なので、写真を数枚掲載します。
下記2枚はチボリ公園跡地を撮影しました。閉館が決まってから、
何度か解体中のところを撮影してきましたが今は跡形もありません。


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はじめまして。そして少々遅めでは有りますが、2010年、明けましておめでとうございます。


宮永亮(MIYANAGA Akira)と申します。現代美術の分野で映像を中心とした作品を発表しております。昨年自作"Wondjina"が、京都、東京、千葉、New Yorkでの発表の機会に恵まれ、それをきっかけに&Artに参加させて頂けた事を嬉しく思います。


さて、今現在は『京都オープンスタジオ』の準備に大忙しです。


元酒蔵物件をアトリエ兼住居として整備しようと思い立ってからはや10ヶ月ですが、
出身大学の非常勤の仕事は多忙で、さらに展示等の為の事務的な作業も膨大でそれに輪をかけて多忙な日々。


思うように作業は進まず、ようやく住居スペースに一応の目処をつけ、アトリエスペースの改修に取りかかっている所です。
と言っても時間ももうあまりないので、忙しさは変わりません。
仕事の方は大学で言う所の前期セメスターの間がメインなので、
やる事をこちらにしぼれると言う意味では少しは気は楽ではありますが。。


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アトリエを改修を大々的にやろうとおもったのは、もちろんインスタレーションへの展開や、
設備の増加とレベルアップ、それにともなう自身のスキルアップ、という事を見据えて、という意味もあります。


ですがそれ以外に、学生時代を通じて、作品とリアリティーという漠然とした概念の関係について考えて来た結果でもあります。
その1つの答えとして、生活と制作の接点に作品が存在する事で生まれるのがリアリティーである、という思考を今は持っています。
そのために、『GURA』に住みつつ、制作をするという試みを始めました。


作品を作る、ということについて思うのは、それは単なるサービス業では無いと言う事です。


作りたいからつくるのだ、はもちろんの事ですが、それを一歩進めて、僕自身にとっても、人々が生きるためためにも不可欠だからつくるのだ、と信じる様にしています。芸術が必要とされるものでありたい、という願いもこめて。生活と制作の接点というのはそう言う2つのリアリティーに関するニュアンスがこもっています


アートは第一次産業で、アーティストは生産を喜びとする者だという捉え方です。僕自身は作品を作る為に、方々をビデオカメラを持って徘徊します。多くの素材を撮り、出来るだけ多くの種を集めます。それらを編集、加工する段階は、水撒きや施肥みたいなもの。それをする場所としてのアトリエは、さしずめ畑でしょうか。


いまはよろこんで食べてもらえる作物をつくるために、必死に畑を耕しているところです。


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畑はその植えられる作物によって、違う作り方があると思います。


上は現在整備中の僕のアトリエスペースです。自分の制作に何が必要か、どんな導線がいるのかなど吟味しながら練り上げていってます。棚や机も、必要な大きさと機能があるものを、店を回って手に入れる労力と金銭面を考えると、作っちゃうのがベストだなあと思い基本自作です。


必要性を追っていって自分の手で作れば、そこにリアリティーが現れる、というのは、作品制作もアトリエ改修もあまり変わりません。僕にとってはアトリエ自体も作品と等価なものに思えます。


良い畑になれば良いなあと願います。今後ともどうぞ宜しくお願いします。

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泉洋平
「トけゆくシカク」
studio 90
撮影日 1月13日


ここしばらくstudio 90のギャラリー壁面は黒いままで、今回で3展示目だ。少しずつ塗り替えているそうなので、手を抜いているわけではないだろう(これは失敬)。影響し合うこともあるだろうが、自身の展示にフィードバックするイメージを持つ事、実験的なスペースだし気軽に実行もできるのだろう。ムラの無い黒い塗装はプロにお願いする必要があるので、白基調の一般的なギャラリーで1~2週間の展示のためには金と手間がかかりすぎる。誰を気にする事なく(少なくとも内部では)、容易に好きなことができるのが作家スタジオの利点で、部外者からしたら壁の色一つでもありがたくうらやましい環境だと思える。
 
泉洋平君は錯視を利用した空間作品を制作している作家さんで、& ARTにも掲載されている田中真吾君、森川穣君とともにstudio 90を運営している。今回の作品は、暗い空間に張り巡らされた糸に規則的に白い塗装がしてあり全体を観るとほの明るい立方体が出現するというものだ。
まず最初が肝心で、暗順応する前の状態が一番いい。唐突に真っ暗な空間へ連れて行かれると何も見えない。少したつと白い糸のラインがあることに気づくが、背景は変わらず真っ暗で空間の奥行きもわからず、また規則的な糸のおかげで立体視の状態になりさらに距離感がわからず、これが気持ちがわるくてとても面白い。慣れてくるにつれ、全体が見渡せ、細い何千本もの糸が見せかけのキューブを作っていることに気づく。おおむね空間が分かるほど暗さに慣れたら、その気持ちの悪い面白い状態も終わり糸の存在感を楽しむ寸法だ。
 
視覚トリックを使用した作品は三次元の空間を見せかけの二次元に変換し、そのギャップや種明かしも含めて半ば強要された楽しさを了解しつつ楽しむのが一般的には吉だが、人間の生理を発露させるような空間や数学的に凝りに凝りまくった作品をもっと観てみたい。泉君の今回の作品は実物の空間の迫力と格好良さと労力に圧倒されたが、アミューズメント、テーマパークも迫力と労力を夢と快感に変換する装置だ。それが目標ではない筈だ、とも思う。その差をどこに見いだせるだろうか。
 
複写をのぞいて、作品を写真に撮ることは何かスペクタクルに荷担している様な気がする。フラットに単なるプレゼンテーションとして齟齬なく取れればいいが、過剰に映る場合もあり、意図してそうする事も、意図せずそうなる場合もある。なんにせよ、映像か写真か言葉、作品を残すにはこの3つがほとんどで、どれも作品を語るには不足している。
ええと、たいした結論もありません。
 
 
 
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& ARTに近日掲載予定の木内貴志さんの取材に保育園へ行ってきた。
授業、保育園的に言えば、おえかきのじかんを拝見させてもらった。幼児慣れしていないが、同じく慣れていないインタビューアーと教室の隅に突っ立ったまま、園児たちの好奇の目をかわしつつ木内さんの仕事ぶりを拝見してきた。「カメラマンなのになんでとらないんですか」と園児の一人にえらく丁寧な口調でさぼりを指摘されてしまった。おじさんにはおじさんの都合があるんだよ。園児たちの質問にも応対したのだが我々の言葉はまったくと言っていいほど通らない。我々の言葉には興味がないんだろう、素無視はつらい。しゃべれども反応は希薄だ。僕ももう一人も育児の自身は確実に失せた気がする。

おえかきのお題は鬼、豆まき前に書いておきましょうということだ。木内さんのお手本は普通の鬼だったが、写真の彼女の鬼は禍々しさがよく表れていて、仕上げに血のような赤を塗った時にはインタビューアーと二人でうなったものだ。
 
ブログはまじめに書こうと思っていましたが、今回はなんというかすみません。

居酒屋での飲み会などで座敷にあがったときに自分の足が少し臭う時があります。
その場合、臭いが気になり会話に集中できなくなることがあります。
もしかすると隣の人の臭いかと疑ったりしますが、確実に自分のです。
最終の確認をするためいったんトイレに向かいます。トイレに着くと足を手で持ち上げ鼻に近づけます。
そして本当に自分の臭いだという事を受け入れます。
もしトイレに手の乾燥機があれば靴下を乾かし少しだけ臭いをちらすことができるかも知れません。
しかし無かったのであきらめます。
座敷にもどるとなるべく足の裏が露出しないようにあぐらをかき、両太ももに両足裏を収納します。
地面と太ももで足の裏を真空パックにする気持ちで行います。これはかなり効果的です。
しかし100%臭いが漏れていないかというとそうではありません。
少なくとも隣の人にはやんわり気づかれています。
もしメニューに「そら豆」などがあれば近い臭いなので少しごまかすことができるかもしれません。
3皿ぐらい注文するのが理想です。しかし無かったのであきらめます。
時間が経つと真空パックも足がしびれてきます。そうなると足を組み替えるしかありません。
しかし足を組み替える時はとても危険です。いままで閉じ込めていた臭いが放出されるかもしれないからです。
素早く組み替えます。少しでも放出を減らすために思い切って自分の鼻で吸い込みます。
吸い込んでしまえばこっちのものです。
「吸われる前に吸う」です。


しばらくするとなんだかんだで飲み会は終了します。
一段落です。


下品な話をしてしまいごめんなさい。次回はアートについて話たいと思います。


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2010年はじめてのblogです。
今年もよろしくお願いいたします。


インターネットで新聞を読んだりニュースをみていると、
いろいろなところで歪みが起っているような気がします。
新しい何かが到来しつつあるんだけれど、
社会や経済、環境、人の心、様々な物事がアップデートできず対応しきれていなくって、
ぎくしゃくしているのかなと、
ふと思ったり。


年始に制作していきたいこととか考えていて、
ドローイングをしていました。
やりたいことが多くあってなかなかまとまりませんでした。
映像制作はすこし軌道にのりつつあります。
模索しながら。
ドローイングは手を使って思考や感覚をまとめたり確認していくことができるので、
映像を制作するのに、はじめはいつもドローイングからはじめます。
誰かに見せたり発表したりすることはありませんが。


ところで昨日はすごく霧がでていました。
天気のことをよく考えています。
空はつながっているのに場所によって暑かったり、
寒かったり、
雨がふっていたり、
晴れていたり、
雪がつもっていたり、
あたりまえのことなんだけど不思議です。
天気の話をするのはすてきなことだと思います。
時間とか空間をゆるやかに共有できるような気になります。
以前に雨の境目をみたことがあって、
それはちょっとすてきな体験でした。


ではでは。

京都で過ごしていると、あー平和だなー、と漠然と思うことがしばしばあります。
先日もおそい初詣で上賀茂神社に詣った帰り、御薗橋から丸太町まで自転車で一気に加茂川から鴨川へと下っていた時に、そう思うことがありました。
ゆっくりと坂道に任せて自転車で鴨川の河川敷を走っていると、いくつもの平和と思ってしまう象徴的な風景が目に入ってきます。
ランニングしているおじさんやおばさん、橋の下で管楽器の練習をしている人、川の中では鴨が並んで泳いでいたり歩いていたり、と思えば、空からはたくさんのユリカモメが舞い降りてくる。などなど。鴨川を走るのが久しぶりだったから、よけいに新鮮に映ったのかもしれません。
ひとつひとつの瞬間が、平和というアイコンだとも思えますが、鴨川には妙にそれを素直に感じさせる何かがあるとも思い、でも、そこにいる自分自身も他の人からみたら、その風景を作り出している一つの要素なのだとも思ったりしていました。
鴨川の持つ、様々な物事を受入れて、全部を鴨川という風景にしてしまう懐の深さというか、そのデザインというか機能にあらためて感心していました。
同時に鴨川を鴨川として維持していく、いろいろな大人の事情もあるとは思いますが...。


鴨川のそうした機能性のことを思いながら、自分の作品の舞台美術にも繋がるのかなーと考えていました。
dotsの作品は「空間」が作品の軸にあるのですが、舞台美術は、その中で大きな役割を占めます。
これまで舞台美術を考える時に大事にしていたのは、作品の中でいかに機能するかということでした。
それは鴨川の持つ機能性と類似しているように思え、そこに立つパフォーマーがどう見えるのかということです。
舞台美術のあり方によって、作品はその見え方を大きく変えます。単純に言えば、高さのある巨大な美術を配置すれば、人は小さな存在に見えてきますが、その巨大なものが細かな大量のもので構成されているとしたら、そこに照明をどうあてるかによって、今度は人を大きな存在として見せることもできます。そして、その美術が持つ質感や情感などでさらに大きく身体の見え方は変わってきます。
作品の場所や状況や感情を説明する為にある舞台美術ではなく、強度のある世界観を持った自立した要素でありつつ、光や音が重なってきたとき違った様相へ変容していくような自由度があるものを作りたいと思ってきました。
(最近は、ものすごく写実的な舞台美術を作って、それをいかに見せるか、とかもやってみたいんですが。)


個人的に良い舞台作品を見た時には、展開していく中で空間の見え方が次々に変容していきます。その空間のスペクタクルとでもいうような体験を、僕は一つの要素として舞台芸術に求めているなのかもしれません。最近では、いわゆるスペクタクルなものを批判するような作品も増えてきていて、それもわかるのですが、僕は自分の身体まで浸食してくるような圧倒される壮観な舞台芸術を見たいし、創りたいと、あらためてこのブログを書きながら思ったのでした。

あー、なんだかあたまがぐるぐるするなあ。
心臓があるらへんがざわざわする。


残ったカブのスープにごはんを入れて雑炊にして食べながら
いろんなものに対する違和感について考えていた。
雑炊の湯気ごしに窓の外を見て、朝起きたての、
いつもの半分くらいの思考速度で考える。
やわらかいごはんが胃に広がって、なんだかじんわりじんわりと
こんがらがったものがとけていく。
考えすぎて物事を複雑にしてしまってるんだ。
きっと もっと ずっと単純 って。


人生も、恋愛も、絵を描くこともそれを仕事にしていくことも、
友達も、社会とか世界とかいうやつも、私の気持ちも、
なんだか複雑でややこしくてちっとも簡単じゃあない。


そんなことを思いながら薄暗い森のなかをずっと歩いていたら、
上から何かが落ちて来て頭にコツン。拾い上げれば木の実ひとつ。
手を見て、木を見上げ、そしてあらためて廻りを見渡したときに
ふと今までと世界の見え方が変わってしまう瞬間が来て、
そこからはなんだ森の多様性の洪水、もうとめどなく。
ああ、なんて単純で本当のもの、と打ちのめされてそこで気が付く。
ものの見方をややこしくしていたのは私のほうだ、と。


そのような感じ。わかりにくいか。


いや、まあでも問題はひとつ。
私にとって大切なものってなんだろう。
ゆずれないものってなんだろう。
見失ってはいけない部分はどこ。


もっと自然にやれるかもしれない。


たとえば色が湧くように。音が湧くように。
壊れた絵画の断片に世界のすべてが存在するとして。


よろこびだとか、かなしみだとか。
きれいだとか、きたないだとか。


ひっくるめてぐちゃぐちゃにしてぜんぶぜんぶぜんぶ。


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